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2018年05月24日

【コラム】<TAG>通信[映像版]第20回「商店街とアート、商店街とまちづくり(ゲスト本多勝幸氏)」要約と所感 清水雅人

1時間超の映像を見る時間を割くのが難しい方のために、<TAG>通信[映像版]の要約をお送りするシリーズ、今回は一番街商店街理事長の本多勝幸氏に話を聞いた。
※すべてを要約できてはないので、よろしければどうぞ映像版をご覧ください。
<TAG>通信[映像版] → https://youtu.be/0vKnh_c7s20

豊田中心市街地の変遷Ⅰ(30年ほど前まで)
 今回のゲストは、豊田中心市街地にある一番街商店街にて薬局を営む本多勝幸氏をお招きした。本多氏は、一番街商店街理事長を長年務められ、また、豊田おいでんまつり踊り部会長など商店街やまちづくりに関する活動も多数されている。
 一番街商店街は、喜多町3丁目交差点(コモスクエアの東側)~豊田信用金庫本店・桜城址公園までの通りを挟んだ商店街である。氏はその中ほどでホンダ薬局を営んでいる。
 本多氏は生まれも育ちも現住所地とのこと。もともと本多家は江戸時代より呉服屋を営んでいた、倉庫には江戸時代のものが結構あったりするが、それはうちだけでなくあのあたりの家はみんな古いとのこと。
 そもそもは、桜城の城下町、挙母神社の門前町として栄えた地域で、その後鉄道が通り豊田市駅前となった。
 戦前までは挙母神社から桜町1丁目付近にまっすぐ道があって、本多家もその付近が表で、現在地付近は裏手だった。現在の南北の通りは多分戦中にできたと思う。豊信本店のあたりは田んぼだった。
 本多氏は昭和35年生まれということで、高度成長期の頃からの中心市街地をずっと見てきたことになる。確かに激変をしてきた、あのあたりで、本多氏が子供の頃から現在まで残っている建物は、ホンダ薬局の隣の床屋さんだけとのこと。あとは桜城址の石垣くらいだと振り返る。桜城址も以前は東邦ガスがあって、その裏にひっそりと石垣があったが、東邦ガスが移転して現在の公園が整備された。一番街商店街は、30~35年ほど前にほぼ現在の景色になり、コモスクエアの建設に合わせて歩道等も整備されのが10年ほど前になる。
 筆者も子供の頃(昭和40年代後半~50年代初め)買い物というと家族で駅前まで来ていた思い出がある。当時は駅ビルのトヨビル、長崎屋、ユニーなどがあり、現在の竹生町付近や桜町にはアーケードがかかっていたのを憶えている。本多氏によると、アーケードは自分が大学生の頃まであったと思うので、36、7年前くらいまであったのではないかとのこと。当時はものすごく賑わっていた。特に銀座通りは“賑わい”という言葉がふさわしかった。銀座通りとは、桜町と神明町の町境(現在のホテルアンティーズのあたり)から喜多町にかけての通りのこと。
 当時の賑わいのピークは昭和40年代頃だと思われるが、その後少し賑わいは収まっていく。本多氏の感覚では、ジャスコ豊田店(現在のイオンスタイル豊田店)ができて(昭和50年開業)、お客さんの流れが変わったのではないかと思うとのこと。時代背景を考えれば、高度成長期も終盤となり、車も各世帯1台目~2台目を持つようになった頃で、郊外型店舗の進出とともに、全国でいわゆる商店街の元気がなくなっていった時代と豊田の街も重なる。
 ただし、本多氏は、その時期それほど商店街が衰退をしたという実感はないとのこと。もともとは呉服屋が多いところで、和服の需要が少なくなり呉服屋がなくなっていったということはあるが、それ以外の業種はそれほど影響はなかったのではないか。江戸時代から続いていた本田呉服店は、本多氏の祖父の代に雑貨等の店になり、父の代から薬局店になっていたとのこと(昭和35年開業)。

本多氏経歴
 続いて本多氏の生い立ち、特に文化芸術との関わりについて聞いた。小さい頃はおばあちゃん子で、本多氏のおばあさんは当時豊田の婦人会会長も務められていたこともあり顔も広く、いろんな所に連れて行ってもらったとのこと。
 その後、小学校6年生の頃よりオーディオマニアになった。きっかけはチャップリンの映画「モダンタイムス」を観て、この映画音楽を家で聴きたいと思ったことで、そこからフォークやジャズにも興味を持ち、中学時代には、吉田拓郎のつま恋コンサートに行ったり、井上陽水のコンサートに行ったりしていた。ただそこから楽器をやる方には行かず、オーディオ機器やレコードが多くなりすぎて、これでは引っ越しはできないので地元の大学の薬学部に入学して(笑)、薬局を継ごうと思っていたとのこと。
 音楽以外では、藤山寛美が好きだったり、落語をよく見ていたが、もっぱら見るのはテレビだった。豊田には芝居や落語などをやっている小屋はもうなかったと思う。コロモ劇場もその頃はもう映画館だった。
 マセた子どもだったので、周りの年上の人が、コンサートに連れて行ってくれたり、声をかけて誘ってくれた。名古屋にもよくコンサート等行った。豊田ではそれほどライブ等はなかったと思う。今思えば何かと受け身で、年上の人に連れて行ってもらっていたので、チケット代もほとんど払ったことがないという(笑)。そういう子ども時代だった。
 大学卒業後は名古屋の薬局店に3年修行に行き、その後家業を継ぐ。
 商店街での活動の前にJC(青年会議所)に入って活動した。これも「どーせいつか入らなきゃいけないんだから」と誘われてしょうがなく入った。JCでは12年活動した。
 本多氏は、何かと受け身で、誰かに誘われて始めて、でも結局長く続けてしまうパターンがあるようで(笑)、なんでも受け入れる、先入観なく自然体でやってみる、という人柄がなせる部分も大きいのではと思う。
 JCの活動時期の最後の頃、一番街商店街の理事長になった。当時でも今でも30代での理事長は珍しいと思うとのこと。理事長になって20年になる、理事長だけは、受け身ではなく「ぜひやりたい」と言って引き受けた(笑)、とのこと。

豊田中心市街地の変遷Ⅱ(30年前~現在)
 一番街商店街という名称になって今年で30年となる。一番街商店街は、3つの自治区(一区、二区、三区)にまたがる商店街という特長がある。当時、30年前頃~理事長になった頃は、行政も絡んでとにかくイベントをやるという時代だった。豊田まつりから豊田おいでんまつりになったのも、ちょうど30年前になる。駅西の再開発(そごう、T-FACE)、長崎屋の撤退やユニー/アピタの撤退の流れの頃である。
 おいでんまつりが始まった頃は、悪夢だった(笑)と話す。とにかく地域や学校、企業も含めて全市的に盛り上げようということで、自分は張りぼての鉄骨を担いでて、踊り部会長なのに1回も踊ったことがなかった(笑)。おいでんまつりも基本は行政主導で、どんどん大きくなっていった印象。
 20年前に商店街の理事長になった頃は、とにかくイベントをやらなければというプレッシャーがあったと話す。しかし、イベントをやるとなると本業がどうしても疎かになるし、すべての個店が望むイベントは難しいというジレンマもあったとのこと。イベントをやらねばというプレッシャーから解放されたのは本当にここ数年とのこと。商店街としてやれることは基本的にはインフラ整備等の土台作りであり、集客はやはり個店それぞれが魅力を出していってもらうしかない、という思いに至ったとのこと。
 筆者はこの<TAG>通信映像版のゲストによく聞くのだが、ここ10~15年豊田中心市街地に飲食店、特に飲み屋さんがとても増えて継続している、その要因はなんだと思いますか?と本多氏にも聞いてみた。
 本多氏は主な要因は2つあると思うと答えてくれた。1つは、豊田の商店街だけの話ではなく、世界的な流れだが、お店でモノが売れなくなった、インターネットに替わってきたという流れの影響は大きいと思う。例えば、アパレル、衣料品をインターネットで買う時代が来ることは考えられなかった。服は着てみて買うものだったが、今や男性どころか女性までインターネットで服を買う時代になった。そういう、モノが売れなくなったことによる業態の変遷はあると思う。
 もう1つの理由は、そうは言っても、孤食の時代と言われても、やっぱりみんなで集って食事をしたい、モノはお店では買わないけど、ずっと個人ではさみしくて集いたいとみんな思っているのだと思う、とのこと。
 音楽業界で例えば、CDが売れない時代と言われて久しいが、それなら音楽自体が聞かれなくなったかというとそうではなく、昨今はライブやコンサート動員数は順調に伸びているという例もある。豊田の例で言えば、30年前、駅西にそごうやT-FACEができた時に、駅東は廃墟になると言われたこともあったが、そんなに極端に人の流れは変わらないと当時も思っていた。
 商店街は生き物なので、その時その時で時代に合わせた形になっていく。飲食店が増えて10~15年だが、その前には携帯ショップが立ち並んだ時期もあった。そういう意味では、そういう流れ時代に逆らってもしょうがないので、例えば今なら飲食店を出しやすいインフラ整備をしていく、ということが商店街等のするべきことなのかなと思う。
 ただし、すべてのお店が業態を変えていくべきかと言われればそうでもなくて、ずっと同じ業態を続けていくお店もあるべきで、うどん屋が流行っているからと言って急にラーメン屋になっても長続きしないと思うし、まさしく自分がやっている薬局などは続けていくべき業態なのだと思う。
 豊田中心市街地に昼間人口(働きに来る人)が増えたという事由ももちろんあるとは思うが、例えば飲食店のジャンル自体も一時の居酒屋乱立から最近はイタ飯屋が増えている。でもそれは、昼間人口の増加が直接そのことの理由の答えにはならない。流行り、大きな流れ、大きなうねりの中で商店街は変わっていくものなので、その流れに沿っていけるかが重要だと思う。
 そんな流れの中で、業態に関わらず商店街の個店でこれから大切になってくるのは“対話”だと思っている。量販店やインターネットでは得られない“対話”がこれからのキーになるのではないか。そう思ってホンダ薬局は「対話型薬局」を目指している。
「だから、全然商店街をあきらめてはないし、まだまだ商店街には可能性がある」と本多氏は話す。

本多氏と文化芸術の関わり
 本多氏はお芝居と15年前頃より関わってきた。最初は唐十郎の紅テントを招へいしたことで(計3回招へいした内の2回は本多氏が委員長を務めた)、1回目はアピタの跡地で、2回目3回目は挙母神社で行った。
 その挙母神社でのテント芝居の雰囲気がよくて、もう1回やりたいということで、とよた市民野外劇で知り合っていた石黒氏に相談し、9年前にわくわく事業の1つとして挙母神社でのテント芝居を行ったのが「翔べ!ジョニー」公演(石黒作演出)だった。「翔べ!ジョニー」は制作だけのつもりがいつの間にか出演してしまったが、、、(笑)。
 また、石黒と筆者がプロデュースをした、<TAG>の前身事業の<TUG>(2011年)にも関わっていただき、Star☆Tと共演もしてもらった。<TUG>はヴィッツ下の豊田市民ギャラリーの活用という目的もあったので、ぜひ周辺商店街とも絡みたいと思った時に相談させてもらったのが本多さんだったという経緯がある。
 今後も文化芸術人材がどんどん商店街に絡ませていただきたいと思っている中で、本多氏を窓口に色々ご相談していきたいと思っている。

豊田おいでんまつりについて
 最後は、本多氏が踊り部会長も務めるおいでんまつりの話題となった。本多氏は、おいでんまつりは合併をして大きくなってきた豊田市の豊田市民としてのアイデンティティを育むアイコンになるべきだと訴える。マイタウンおいでんも含めて、おいでんまつりが、もっと豊田市を知る、豊田市民であることを感じる機会になって欲しいと話す。
 豊田おいでんまつりは今年がちょうど50回目にあたる(豊田まつりで20回、おいでんまつりになって30回目)。筆者が50回の節目でそのまま継続していくのか、方向展開をするのか見守っていたがどうなりますか?と本多氏に聞くと、まさに議論の真っ最中でいろんな意見があるが、おいでん踊りは続けていくという意見が大勢ではないかと話してくれた。ただし、今のまま、そのまま継続していくのは時間の問題やその他限界もあり、変わっていく必要があると思うとのこと。今年は金曜日に前夜祭をやろうという話も出ており、色々試行錯誤していきたい。
 石黒氏は、おいでんまつりは踊る人のものなのか、見る人のものなのか、と聞く。名古屋や札幌のまつりは、まずは踊る人のものであり、踊りの質を高めていくことで、それを見に行く人が増えるという相乗効果があると思うが、おいでんまつりはどうなっていくのか。
 本多氏は、現状ではおいでん踊りの競技という面をいきなりなくすことはできないので、踊る人が中心であることは続くと思うが、踊る人と見る人の垣根をどうやって下げていくかという課題は今後あると思う。
 筆者も、膨大な踊り連が参加していたあの頃をもう一度ではなく、様々な場面、場所で様々な楽しみ方がある、多様性がある中でそれぞれで参加できる、新しいおいでんまつりを作っていくべきだと思う。本多氏は今年やる予定の前夜祭がそんな何でもありな実験的なイベントになるのではないかと話す。
 本多氏は、おいでんまつりは、合併で大きくなってきた豊田市の唯一の「この指とまれ」だと思っていると話す。なので、門戸を狭めることはしたくないし、だれでも気軽に参加できるおまつりを目指していきたいと話す。
 おいでんまつりも含め、文化芸術人材も商店街のみなさんと様々な形でかかわっていけたらと思っているので、また色々と相談させてください、というところで今回は終わった。

本多さんから告知です。
豊田市スタジアムでのグランパス戦開催時には、喜多町3丁目交差点付近で焼きそばを売ってます。缶バッジも作って焼きそばにつけているので寄ってください。
5月27日には中心市街地周辺でふれ愛フェスタ2018が開催され、一番街商店街にて段ボール迷路をやってますのでこちらもお越しください。
そしていよいよ7月27・28・29日は豊田おいでんまつりです。ぜひ楽しんでください。

ゲストプロフィール
本多勝幸(ほんだかつゆき)
薬剤師、薬局店店主、一番街商店街理事長。1960年生まれ。豊田に生まれ、小さいころから音楽・オーディオ機器にのめり込む。大学卒業後修行時代を経てホンダ薬局を父より継ぐ。JC(青年会議所)活動の後、一番街商店街理事長に就任、他にも豊田おいでんまつり踊り部会長など。また、唐十郎氏が主宰する「紅テント」の招へいや、挙母神社でのテント芝居「翔べ!ジョニー」(2009年 石黒秀和作演出)の主催・出演、「サードlab.」出演(2011年)など演劇等文化芸術人材との交流も深い。


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