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2016年11月10日

【コラム】<TAG>通信映像版第3回「豊田の映画をとりまく状況、そして人材育成とは?/ゲスト岩松あきら氏」要約と所感

1時間超の映像を見る時間を割くのが難しい方のために、<TAG>通信[映像版]の要約をお送りするシリーズの第3弾、今回は豊田の映画、映像をテーマに岩松あきら氏に話を聞いた。
※映像アップより時間が経ってからの公開になってしまいましたが、どうぞ参考にしてください。すべてを要約できてはないので、よろしければどうぞ映像版をご覧ください。
<TAG>通信[映像版] → https://www.youtube.com/channel/UCIjZssyxVzbc1yNkQSSW-Hg

豊田の映画の歴史、全国の映画の歴史 70~80年代
 豊田の映画の歴史について、岩松氏と筆者で考察するに、個人での制作、学校内での制作はあったようだが、組織的に豊田を拠点として映画作りを行っていた団体等はなかったと思われる。これは、ちゃんと分析したわけではないが、全国的にも、そんなになかったのではないか。
 70年代より、8ミリフィルムの民生化により、いわゆるプロではないアマチュアが映画制作をする「自主映画」が盛んになり、PFF(ぴあフィルムフェスティバル)などのコンテストも開催され、映画会社で修行をして監督になるのではなく、自主映画からプロの世界に入る人材も出だした。しかし、そうやって映画を作っていたのは主に学生であり、都市部に偏っていたのではないか。社会人になってもそのまま映画作りを継続する人材は、ごく限られていたのではないかと思われる。
 岩松氏も高校時代より8ミリにより映画制作を始め、学校内での上映や、大学時代は、演劇界と親密になり、大須の七ッ寺共同スタジオで映画上映をしたり、演劇と映像の融合を試みたりしていたが、豊田や三河地域の地方都市を拠点とするものではなかった。

豊田の映画の歴史、全国の映画の歴史 90年代
 全国的に言えば、90年代から、自主映画のメディアが8ミリフィルムからアナログビデオに変遷していくが、編集のしにくさ、フィルム感のなさなどから、8ミリほど盛り上がらなかった。これは、日本の映画界とも連動していて、戦後の映画隆盛時代からテレビの出現等による下降を経て、90年代は日本映画の最低迷期だったこととも重なる。
 ただ、そのころレンタルビデオ店が全国に乱立し、Vシネマ(映画館公開ではなくビデオ販売、レンタルを目的に作られた映画)が多数作られた。ホストの石黒氏も、富良野塾を卒業後、Vシネマのシナリオの依頼がたくさんあったと振り返る。現在、映画監督として活躍する人材も、この時期Vシネマを手掛けている人も多い。
 もちろん映画館の状況も連動した。豊田においては、駅前にあったアート座とコロモ劇場という映画館が90年代はじめになくなっている。全国的にも、駅前の映画館が段々なくなっていった。

豊田の映画の歴史、全国の映画の歴史 2000年以降
 過去2回で演劇、音楽をテーマにした回でも出たが、2000年前後で1つの節目があったというのは映画にも当てはまる。
 映画においては、パソコンの普及により、デジタル撮影、デジタル編集が可能になり、映像撮影・編集が各段にしやすくなったことだ。筆者もその流れの中で、1999年より映画製作を始め(まさにPC購入がきっかけだった)、岩松氏も大学卒業後一旦やめていた映画製作を再開させている。
 また、シネコンができ始めたのもこのころだ。豊田に関して言えば、MOVIX三好が2000年にオープンしている。ここから邦画の活況が始まり、2006年には邦画興行収入が邦画興行収入を20年ぶりに上回ることになる。
 岩松氏が映画作りを再開した2000年代前半を振り返る。そのころ、この地域でも映画を作り始める人や団体が発生してきていて、映像制作の専門学科を持つ大学や専門学校も増えてきていた。岩松氏も名古屋学芸大学やビジュアルアーツの学生と映画作りをしたりしている中、筆者と出会う。
 筆者は、PCを購入したことをきっかけに仲間内で映画制作を始め、その上映の場として2002年から小坂本町一丁目映画祭をスタートさせる。この映画祭は当初より、地元で作られた映画を上映する、というコンセプトだった。映画祭は年1回の開催になり、上映映画の関係者や、映画祭スタッフとして多くの人材が集まり始めていた。
 そんな中、2005年に筆者と岩松氏が出会い、一緒に映画作りをしようとなり、M.I.F.第1作となる「箱」を制作、その時のスタッフを母体にしてM.I.F.(Mikawa Independentmovie Factory)を設立する。
 当時、全国的にも映画制作人口は増加していたと思われる。自主製作映画コンペの老舗となっていたPFF(ぴあフィルムフェスティバル)の応募本数が2000年代より増加しはじめ、他にも全国で映画祭が多数開催されていた。
 M.I.F.においては、設立当時より、地域での活動、地方都市での映画制作をコンセプトとしていた。メンバーの主流が社会人だったということもあるが、東京に出てプロになることを目指すのではなく、自分の住む町を舞台に、地元の人たちと一緒にいい映画を作ることを目的としていた。地方の時代、地域活性化というキーワードが氾濫してきていた時期でもあったが、実感としては、ハードの革新により手軽に映画制作ができるようになり、地元で映画作りを楽しみたいという人が増えてきたのは自然な流れだったと思う。これは、70~80年代にはなかった発想だったと思う。

2000年代後半から現状
 撮影、編集機材の向上などによる映画作りの環境はどんどんよくなってきたはずだが、映画制作人口が増え続けているかというと、2000年代後半以降、そうでもないというのが実感だ。2000年代前半に全国でたくさん開催されていた映画祭はかなり減ったと思われるし、小坂本町一丁目映画祭でも、全国からの上映作品募集を2007年から開始したが、最初の頃は全国各地から応募があったのに対して、最近はほぼ東京地区からの応募になっている。
 これは、主に映像の仕事をしながら、プロへの足掛かりとして自主映画を製作してコンペに出品している人たちで、地方都市で気軽に映画を作ってみました、という人が少なくなっているためだと思われる。岩松氏も、全国の映画祭に招かれていくと、いつも同じ顔触れ、同じ監督がいるようになったように思うとのこと。
 その原因は、推測の域を出ないが、ネット等で公開して映画祭応募までしないのではないか、ドラマとしての映画作りよりYouTuber的な映像が主流になっているのではないか、映画作りにはチーム作りが必要だが若い人たちにはそれが面倒なのではないか、などの理由を挙げた。
 そんな中で、継続して映画作りと映画祭運営をしてきたM.I.F.は全国的にも珍しい存在になりつつあるのではないか。ハードの発達で映画制作はより少人数でできるようになっている中、地方での映画作りを組織的に継続的に行っている団体はそれほど他に例がないと思われる。

三河映画の試み
 岩松氏は、M.I.F.での活動を経て、2007年頃より「幸福な結末」という映画の制作に取り掛かる。これは、ブラックインディという全国的なプロジェクトに関わりつつ、劇場公開作を制作する試みだった。
 岩松氏は、まずはいい映画を作りたいという一心から制作をはじめ、そのためには1人で作るのではなく、人材を結集しなければならないと考えたと語る。その中で、筆者も「幸福な結末」については脚本、制作プロデュ―サ―として参加する。岩松氏は、そのような中で、人材や撮影地、その他さまざまな協力を地方都市で集結していく過程こそが地域振興であることに気付いて行った、映画を作りたかったら東京を目指すという発想ではなく、地方から直接世界に発信すればいいというコンセプトになったと言う。
 また、映画を作ったとして、自分で会場を借りて、友人や知人などに見に来てもらう上映会をするというサイクルから脱する必要性も感じていたという。そしてその先には劇場公開ができるようなクオリティの映画を作る必要があるという思いもあった。
 映画作りを再開しようと思った時に、お金もない、機材もない、スタッフもキャストもいない、これじゃやっぱり映画作れないな、とあきらめかけていた時に、とある人から「そんなもんやればいじゃん」と言われ、すべて自分への言い訳に過ぎなかったと気づいたと語る。東京にいないことを映画が作れない言い訳にしたくなかったという思いが、三河映画という試みに結集しているという。
 三河映画は、現在第2弾「Ben-Joe」の撮影真っ最中だ。

豊田をとりまく映画の状況とこれから
 現在、市民映画(行政なども絡んで、市民一体で映画を作ろうというプロジェクト)の制作が増えている。西三河地域でも、高浜や碧南、刈谷、岡崎などで次々と制作されている。そんな中で、豊田では市民映画が作られてない現状がある。
 1つには、岩松氏も筆者も、市民映画といってあまり面白い映画がない、あるいは監督やスタッフを東京から呼んできて撮ってもらうのはちょっと違う、という思いがあり、市民映画という形にせずに「幸福な結末」や「Ben-Joe」を作ってきたという経緯もある。
 また、一方では、豊田市駅前にシネコンがオープンするのに合わせて「映画を活かしたまちづくり実行委員会」も立ち上がり、やっと行政も絡んで、映画文化を醸成していこうという空気が出始めており、その先には市民映画制作は当然出てくる話だと考える。
 さらに、現在、豊田市に在住している黒土三男監督作「星めぐりの町」の制作も進んでいる(2017年3~4月撮影予定)。これも、豊田を映画の街にする大きなきっかけにしなければならないだろう。
 豊田をとりまく映画の状況は、M.I.F.や三河映画の自主的な活動を経て、シネコンオープンなどを契機に、映画をより市民全体で盛り上げていく時期になりつつある状況だと考える。

そして人材育成とは?
 最後に、人材育成についての話をした。M.I.F.は、映画制作と映画祭運営を両輪の活動としていて、ほとんどみんな映画作りなどしたことのないメンバーが、いちから映画作りを模索し、新しい人材を積極的に受け入れノウハウを引き継いできたのだが、徐々に、映画作りの過程のルーティン化はされたが、いい映画を作りたい、たくさんの人に見せたい、という思いや情熱という一番大切な部分がうまく継承されていかなかったと反省している、と筆者は投げかけた。
 岩松氏は、やはり映画制作の現場で、いい映画を作るには労力とアイディアと思いが必要だということを経験してもらう、現場で人材育成をしていくしかないのではと語る。
 石黒氏も、芝居を見ていて、関心はするが感動はしない、ということが時々あると言う。確かに、若い人たちの作品を見て、もっと無茶やっていいのに、もっと思いをぶつけていいのに、という行儀のよさを感じると筆者も思う。
 ということで、最後は、岩松氏が常に現場で映画制作を続けているように、石黒氏と筆者も本格的に芝居作りや映画作りをする現場を作っていきましょう、となった。


ゲスト:岩松あきら(いわまつあきら)
映画監督。高校時代より自主映画を撮り始め、これまでに国内外の様々な映画賞を受賞。2007年映画製作団体M.I.F.設立に参加、2010三河映画を立ち上げる。“三河映画”は、地元(人・企業・行政)から多くの協力と支援を得て、2011年、第一弾作品『幸福な結末』を完成。現在、小学校教諭だった岩松監督の教え子の身に「実際に降りかかった事件」を原案とした“三河映画”第二弾作品『Ben-Joe』の撮影真っ只中。
映画『Ben-Joe』の公式ホームページhttp://mikawaeiga.com
三河映画facebookページhttps://www.facebook.com/Benjoe.movie


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