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2016年11月24日

【コラム】劇団スカブラボー第5回本公演「天使に願いを」観劇レポート 清水雅人

 11月16・17日に豊田産業文化センター小ホールで開催された劇団スカブラボー第5回本公演「天使に願いを」を観劇してきた。
 以下まずは劇団スカブラボーを紹介する。
 劇団スカブラボーは東京を中心に活動する劇団だが、昨年まで開催されていた、とよた短編演劇バトル「T-1」にて、前身団体「空想科学少年ダッチ☆だんぺい」から数えて2年連続で優勝、昨年にも第3回公演を豊田で行っているとのこと。団員のどなたかが豊田市出身ということで(間違っていたらすみません)、結成以来豊田と縁が深い劇団だ。
 東京の下北沢界隈にて公演もしているとのことで、東京で活動する小劇団の舞台が豊田で観られるのは、実は珍しいことでもある。
 また、地元の劇団の公演は土日曜日公演が多い中(団員が仕事を持ちながらということもあると思うが)、今回の公演は平日夜公演という挑戦をされており、そのあたりも注目する点だった。
 筆者はT-1での舞台及び昨年の公演も見逃しており、この劇団の観劇ははじめてであった。

 まずは、公演全体についての所感から。
 筆者は2日目の11月17日(木)に行ったが、集客は苦戦しており、さびしい感じは否めなかった。笑いが起こるべきところでも、会場の密度が薄いゆえ起こらない雰囲気が終始した。これが、もう少し小さい箱で、お客さんも密集していたら、笑いや他のリアクションももっと起こっていたと想像するので、改めて場の重要さを感じ、今回はちょっともったいない気がした。
 セットもシンプルで、登場人物もそれほど多くなかったので、よりお客さんが密集する空間の方が、演者の熱気も伝わり、芝居自体の印象ももっと違ったのではないかと思う。ただ、豊田においては、芝居が常に上演できる小さい箱というのはないので、自らで作るしかないのだが。

 内容においても、会場の広さゆえか、本公演という構えゆえか、少しゆったりとした印象があった。兄天使が出てきてから少しずつ芝居がノッてきたのだが、逆にそれまでが長く感じた。全体としても、もっとテンポよく、全体尺も短くてよかったと思う。
 小さな漁村、気弱な主人公のもとに天使が現れ、人間と天使の恋、兄妹天使の母の秘密など複数の軸が交差しながらストーリーが進んでいくファンタジックな内容だが、構えが大きいためか、ストーリーの建てつけの雑さが見えてしまった感じがした。もう少し小さい空間で、テンポもよければ、多少雑くらいな方が勢いが出て気にならなかったと思うし、構えを大きくするなら、もう少し周到なストーリー構築、展開が欲しかったと思う。

 ただ、演者1人1人のスキルは高く、それぞれのキャラクターも演じ分けられていてすんなりと入ってきた。演技力、演出力の高さゆえだと思う。
 この公演が実力のすべてではないと思うので、これからも、豊田でも継続して公演しもらって、劇団の成長を見ていきたいと思う。

清水雅人
映像作家・プロデューサー。<TAG>発起人。映画製作団体M.I.F.元代表。映画製作の他にも、小坂本町一丁目映画祭運営、豊田ご当地アイドルStar☆Tプロデュ―スなどを手掛ける   

Posted by <TAG>事務局 at 19:31Comments(0)コラム

2016年11月23日

【コラム】<TAG>通信[映像版]第5回「まちづくりとデザイン、地方都市と情報発信/ゲスト西村新氏」要約と所感 清水雅人

1時間超の映像を見る時間を割くのが難しい方のために、<TAG>通信[映像版]の要約をお送りするシリーズの第5弾、今回はデザイン、情報発信などをテーマに西村新氏に話を聞いた。
※すべてを要約できてはないので、よろしければどうぞ映像版をご覧ください。
<TAG>通信[映像版] → https://youtu.be/Z-Anu0P0yqQ

西村新氏経歴
 <TAG>通信[映像版]も今回で5回目となった。これまでの4回は、<TAG>が主に取り扱う、豊田の演劇、映像、音楽、アートを俯瞰的に話す試みをメインに据えたので、総論的な話も多かったが、今回からは、よりゲストの人となりをお聞きする、豊田で活躍している人、興味のある人にお話を聞くことに、より重点を置いていきたいと考えている。
 その最初は、デザイナーでこいけやクリエイト代表の西村新さんに来ていただいた。
 西村氏は、豊田市出身で、市内の高校卒業、県内の芸術大学を経て、デザインに関する仕事や関係ない仕事をしつつ、8~9年前よりネットフレンズ(「chaoo」などを発行する地元の広告代理店)にデザイナーとして勤務、2011年に独立し、こいけやクリエイトを設立された。
 独立には、東日本大震災もきっかけになったとのことで、2011年3月11日は仕事をしていたが、こういう時に、やはり家族のそばにいたい、それに仕事が遅くまでかかることも多いが、なるべく家族といる時間を多くしたいということで、自宅兼事務所にしたと語る。
 また、デザインを仕事としてやっていこうとした時に、東京や名古屋などに場を求めなかったのか聞くと、不思議とそういう気持ちは当時からなく、昔から地元が好きで、地元にいたいという気持ちが強かったとのこと。

 西村氏が学業を終えてデザインの仕事を地元でしていくのは、90年代中終盤頃だが、この頃より、フリーペーパーの出現や、インターネットの普及があり、地方ではそれまで新聞、広告、チラシくらいだった情報媒体がぐっと拡がり、デザインの需要が徐々に高まっていく頃だったと推測される。
 もう少し目を拡げれば、ケーブルテレビ局やコミュニティラジオなどの放送媒体も90年代より地域メディアとして出現してきており、媒体の種類は、全国を相手にする大手メディアと基本的には変わらなくなってきた時期でもある。
 改めて言えば、90年代から2000年代前半にかけて、情報発信のツールは、紙(新聞、雑誌、広告など)、放送、インターネットと、地方では、まずは環境として整ったという側面があると思われる。
 西村氏も、独立する時には、デザイナーでもある奥さんとともに、グラフィックデザインとWEBデザインでやっていけるかなと踏んでの独立だったとのことだった。

まちづくりとデザイン~本当の豊かさとは?~
 西村氏の手掛けるデザインや事業の特色として、農と食、自然など、統一的なテーマを感じる。それは独立時からのテーマだったのか聞くと、特に最初から狙っていたわけではないとのこと。独立のきっかけが、家族と一緒の時間を持ちたいということにも表れているが、「本当の豊かさとは何か?」という思いがあり、自分としては、ビジネスとしてより大きなお金を稼ぐということよりも、生活できる範囲で仕事をして、家族との時間を大切にしたいという生き方が、デザインや事業展開にも反映されているのではと語る。ただ、それらは最初に厳密に計画したわけではなく、今思えばそう思うとのことだった。

 西村氏は自然体で進んで来ただけだと語るが、このスタイルは、中山間地を持つ豊田が進むべき1つの方向性にとてもフィットしてきたと考えられるし、また、「本当の豊かさとは何か?」という問いは、普遍性を持った、時代の流れに寄り添ったものであると思う。
 従来デザインと言えば、ファッション、建築、出版物などのイメージだが、現在においては、まちづくりもデザインするという言い方がしっくりくるようになってきており、西村氏の活動には、デザインが進む先を感じさせるものがあるのではないか。

 西村氏は、デザインとは「よりよくするもの」だと語る。例えばチラシを作る場合、チラシを作ること自体が目的なのではなく、本来の目的を達成するためのツールとしてチラシがあるわけで、もっと言えば今では昔のようにチラシなどの紙媒体だけが情報発信のツールということはなく、インターネットやSNSなど様々なツールもあるので、目的を達成するためにそれらをどのように組み合わせていくかをコーディネートすることがデザインになってきていると語る。
 現在のデザインとは、地域の問題を発見し、抽出し、提示し、解決の方向を示すもの、という話も聞くが、西村氏が情報発信の最初のツールとして発刊し、4年が経つフリーペーパー「耕Life」などからでも感じられる、「豊かさとは何か?」「より豊かなくらしとは?」というテーマ設定と楽しさを追及する試みは、まさに現在のデザインのありかた、まちづくりとデザインを体現していると思う。
 豊田市として考えれば、中山間地域に関わる諸問題をどう解決していくかというのは大きなテーマであり、おいでんさんそんセンターはじめ様々な取り組みがなされているが、豊田のいなかを見える化する、魅力を伝えるということにおいて西村氏が担っている功績は大きいと考える。

地方都市と情報発信
 情報発信のコーディネートもデザインの内だと考えると西村氏は語った。地方都市における情報発信をどのようにするかというのは、実は<TAG>を立ち上げた目的の1つでもある。
 私たちは日ごろ多くの情報を主にテレビや新聞・雑誌などのマスコミ、それとインターネットから得ているが、そこには地域の情報はほとんどないに等しい。「これって実はおかしんじゃないか」と疑うことから始めるというのが<TAG>でもある。
 先ほど言ったように、紙や放送、インターネットなど地方都市にいても、情報発信のツールは揃っていて、受け取ることもできるわけだが、有機的に機能しているかと言えば、半分はイエスで半分はノーとなる。

 西村氏は、昨年より、とよたまちさとミライ塾の運営、情報発信も手掛けている。この事業は、市内のワークショップや講座を集約して情報発信する試みであり、注目度も高く、利用者も増えてきている。
 3年前の事業の初年度は、いち講座開催者としての参加だったが、2年目となる昨年度から豊田市観光協会より運営等請け負うことになった。
 ここでは、情報の集約やサイト・パンフレット等による発信だけでなく、それぞれのパートナー(講座開催者)に情報発信の仕方などをレクチャーする、横のつながりを促すために交流会をするなどの支援も行っている。そこには、まちさとミライ塾の全体のデザインの中で、必然的にやるべきことを必然的に手掛けていく、盛り上げていくという的確さ、筋道の正しさを感じる。

 また、西村氏は今年からとよたプロモ部という事業も立ち上げられた。これは、部員を募り、プロモーション(情報発信)に必要な各分野の専門家(写真、映像、文章など)を呼んで学び、スキルを上げていくという事業で、現在30人ほどの部員がいる。情報発信の重要性を感じ、耕Lifeやまちさとミライ塾を経て、プロモ部立ち上げに至ったとのこと。今年はプロモ部のメンバーに市民レポーターとしてまちさとミライ塾の講座の取材をしてもらったりもしているとのことだった。

 他に、西村氏は、とよたあそべるとよたプロジェクトのプロモーション、ロゴ作りやサイト作りにも携わっている。ここでは、全国のまちづくりに関係する様々な人たちと交流できたり、豊田を外から見る視点を得られることも大きいと語る。

最後に~情報発信に必要なもの~
 最後に、地方都市での情報発信を機能させるためには何が必要か聞いた。
 例えば耕Lifeは、現在1万5千部を配布している。ただ部数を出すということではなく、より質の高い読者、ちゃんと読んでくれる読者を少しずつ地道に増やしてこれたと思っている。
 また、インターネットでは、例えばあそべるとよたプロジェクトは、フェイスブックページのいいね!が1,300ほどあり、投稿によってはシェアされて1万くらい閲覧されている。
 SNSとひと括りで言っても、フェイスブックやツイッターなど種類によってもターゲットは違ってくるが、紙媒体でも、インタ―ネットでも、情報の届く先が1万を超えてくると、例えば企画募集にそれなりのリアクションが返ってくるなど、浸透している実感が出てくるとのこと。また、紙媒体ととインターネットの情報発信力を比べると、どちらが大きいということでもなく、同じくらいではないかとのことだった。コアな1,000(いいね!フォロワー)と情報が届いている10,000というのは、豊田市での情報発信の1つの目安なのかもしれない。

 そして、情報発信で必要なことは、コンテンツの質と継続性、さらに言えば、いろんな人を巻き込んでいくこと、繋がっていくこと、応援してくれる仲間を増やしていくことではないかと西村氏は語る。これは、「顔が見える」という地域コミュニティとしてのメリットを活かすというもっとも必然的な答えだと思う。

 筆者が若い頃、80年代に情報にこそ価値があるという言説が言われ始めた。それは今や自明のこととなり、情報のグローバル化は進み続けている。しかし、そんな中で、地域コミュニティでの情報発信のあり方を考えることは、もう一方でもっとも今日的なテーマにしなければならないと思う。地域社会をどう再生していくかという問題の中で、情報についての議論はまだこれからだと思うし、今回の1つのテーマだった「本当の豊かさ」の中には、情報の量ではなく質を考えることの必要性があると思う。

 西村氏にこれからの取り組みを聞くと、今年立ち上げたとよたプロモ部をさらに充実させていきたい、情報発信のプラットフォーム、ここにいけば情報が集約されているという場所(まずはネット上と考えている)を作っていきたいとのことだった。
 <TAG>とも重なる部分も大きく、今回の話は大変勉強になった。そして、引き続き連携も取っていかせらもうことを約束した。

ゲスト:西村新(にしむらしん) 
デザイナー、こいけやクリエイト代表取締役。豊田市出身・在住。印刷会社や広告代理店等でのデザインの仕事を経て、2011年独立、こいけやクリエイトを設立。以後、フリーペーパー「耕Life」発行、とよたまちさとミライ塾運営、とよたあそべるプロジェクトプロモーション、とよたプロモ部主宰など、デザインに限らないまちづくりに繋がる活動を続けている。
こいけやクリエイトサイトhttp://koikeya-create.com/
耕Lifeサイト http://www.kou-life.com/
とよたまちさとミライ塾サイト http://www.toyota-miraijuku.com/
とよたあそべるプロジェクトサイト http://asoberutoyota.com/
とよたプロモ部フェイスブックページ https://www.facebook.com/toyotapromobu/

  

Posted by <TAG>事務局 at 12:13Comments(0)コラム<TAG>通信映像版

2016年11月15日

【コラム】<TAG>通信映像版第4回「アートと地域、私たちとの距離/ゲスト亀田恵子氏」要約と所感 清水雅人

1時間超の映像を見る時間を割くのが難しい方のために、<TAG>通信[映像版]の要約をお送りするシリーズの第4弾、今回は豊田のアートをテーマに亀田恵子氏に話を聞いた。
※映像アップより時間が経ってからの公開になってしまいましたが、どうぞ参考にしてください。すべてを要約できてはないので、よろしければどうぞ映像版をご覧ください。
<TAG>通信[映像版] → https://youtu.be/cCsosDOeHlI

肩書について
 冒頭、亀田氏の肩書の話になった。便宜上評論家と名乗っているが、少しおこがましい気持ちもしているとのこと。評論というと、歴史も含め作品を系統立てて解説するというイメージがあるが、自分は美術を専門的に学んできたわけでもないし、特に現在のアートは様々な表現があり、解説、解釈するということ自体に違和感がある。スタンスとしては、自分もいち鑑賞者、いち生活者として、感じたこと、作品や公演を目にした感情を言葉にすることで、言葉にすることが苦手な方に訴えられないかという思いで活動しているとのことだった。
 また、公演などのプロデュースも行っているが、評論とはちょっと関わっていくマインドが違っているように思っていて、パフォーマーの人は繊細な人が多いので、よりその人のよさをどのように引き出して、観客と繋げていくかという作業だと思っているとのこと。

アートとは?とよたデカス・プロジェクトでの活動を通して
 とよたデカスプロジェクトは、豊田市教育委員会(文化振興課)が主管する、市民提案のアートプロジェクトに補助金ではなく、賞金を出す事業で、今年(平成28年度)が3年目となる。亀田氏は、そこでモデル事業として「小渡・アートミルフィーユ」に昨年から携わっている。
 とよたデカスプロジェクトの特長は、それぞれの提案者がアートディレクション・プロダクション自体で生活費収入を得るのではなく、基本的には事業費はトントンになるくらいの予算組みで、正職を持ちながら、生活者として地域と連携しながら行う事業であるとのこと。

 筆者より上の世代は、アートというと美術館などに見に行くものという先入観があるが、90年代以降、アートプロジェクトと呼ばれる、展示施設を出て土地や場所とアートを融合させたり、制作過程自体を見せいていく、ワークショップ等の開催などの、自由度の高い活動が展開されてきている。これは、地域振興、まちづくりとも関連して、全国で増加してきていると思われる。トリエンナーレやビエンナーレという事業も認知度を得てきている。
 亀田氏は、確かに地域住民の人たちに「アートってなにか説明してほしい」とよく言われるが、アートとはこういうものだという正解があるわけではなく、それぞれの人が、子どもでも高齢者でも関係なく、自由にそれぞれ違ったメッセージを受け取ればいいものだと考えていると言う。日常の社会や関係性、いわば縦軸の関係性をとっぱらって、みんなを横並びにする機能がアートにはあると考える。そういった機能は、そのまま市民活動にあてはめることができ、様々に普及していっているのではないかと考察する。
 また、アートは日常を反転させる機能も持つと亀田氏は言う。小渡・アートミルフィーユで、朝顔を見てもらおうとなった時に「でもお客さんが来る時間には朝顔はもう咲いてないからどうしよう」とみんなで悩んだ。だが、発想を転換して、それならお客さんに朝来てもらって、小渡の朝を楽しんでもらったらどうかと提案したことがあったとのこと。このような反転、欠点と思われることを長所にしてしまう機能がアートにはある。

 そもそも、各地域にはつい数十年前前まで、神事などとも相まった農村舞台や芸能などが盛んにあって、それこそ非日常を作り出すお祭りそのものがアートだったとも言える。高度成長期のなかで、そのような土着的なお祭りがなくなっていき、非日常な時間/空間がなくなってしまった先でアートが非日常性を復活させているとも言えるのではないか。

 亀田氏が、小渡でデカスプロジェクトのモデル事業をやろうとした時に、パフォーマーや現地の人とともに地区を歩いて回った。その時に、古い廃車が草むらの中にあったり、その横を子供たちが歩いていたりと時間の多層性を感じた。また、集落に中に川があり、昼間は気づかなかったのに夜だと川のせせらぎが大きく聞こえるなど1日の中でも違う自然を感じ、これはまさにミルフィーユのようだというところから事業に名付けたという経緯があったと語る。

 小渡・アートミルフィーユでは、様々なことをしている。早朝にヨガをやったり、風景の中に人がいるだけでまた違う風景が立ち上がってくることから、まちのいろんな場所にパフォーマーがいて、みんなに回遊してもらうなども行った。1つ1つはバラバラのイベントに見えるかもしれないが、そこには背骨となる全体のコンセプト、ストーリーがあり、それを共有することはとても大切だとも語る。

 小渡の地域の人たちの中に入っていった時に、こちらからこんなことをやりたいと言うのではなく、いちから一緒に何をやろうかと考えることに重点を置いた。それも最初だけでなく、途中で何回も、これはどのような経緯でやっているのかなどのコンセプト共有を図っていったと言う。

 アートという視点で見ると、旧合併町村、旭や足助、小原などとても元気で、人材も豊富だと感じる。やっとその元気が旧豊田地区にも波及してきていて、効果が見られるのではないか。
 また、一方でまちなかには豊田市美術館があって、展示機能だけではない、アートを発信する役割を担いつつあるし、例えば文化振興財団が手掛ける農村舞台事業なども浸透してきており、様々なアートが市内で展開してきている印象がある。

 亀田氏は、何をやるのかとともに、なぜやるのかという視点を常に持つ必要性を語る。確かに、コーディネーターは常に言葉でコンセプトを説明して共有してもらう役割を担っている。しかし、同時にすべてをシステマティックにしてもだめで、そのまち特有のゆるやかな時間や人間関係に身をゆだねることも大切だとのこと。
 先に話題になった非日常の時間/空間を取り戻していくことともつながるが、現代的な集中・効率的な時間の使い方と、ゆったりとした時間の共存、バランスの感覚が重要だと語る。

アートのこれから、人材育成は場と機会を作ること
 これからを考えた時に、アートをどうしていくか?と大きく考えるのではなく、自分自身がどう生きたいか、時間をどう使いたいかを考えると、必然的にアートに触れることになるのではないかと亀田氏は語る。例えば、亀田氏は就職した時に寮生活で2人部屋だった。1人の時間が欲しくて美術館に通ったりして作品をゆっくり見たり感じる自由が生活の中でとても必要だったと振り返る。そのような、生活する上で何が必要かを考えた時に、アート、芸術が見えてくるのではないかとのこと。

 豊田市においては、デカスプロジェクトはじめ、あそべるとよたプロジェクトやまちさとミライ塾、その他さまざまなものが同時進行的に展開していて、すべてアートと言ってしまっていいと思う。そういう意味では豊田市のアートは花盛りと言えるのではないか。しかし、一方ではアートディレクター、コーディネーターが不足している、人材育成が必要だとも言われている。

 亀田氏は、デカスプロジェクトをやる時に人材育成をやって欲しいとも言われて、企画者を育てる場としてシデカス隊を作った経緯もある。
 石黒氏は、でも人材育成だけに目がいってしまうことも危険で、場所と機会があれば、自然と人は育つのではないか、人材育成という題目だけ唱えると、例えば人材育成講座をやればいいという発想になりかねないのではと言う。ただノウハウだけがあっても人は動かないのではないか。やはり人間関係の中で、じゃあ参加しよう、という動機づけもあるだろうし、そのような繋がりを作っていくことが人材の育成につながるのではないか。

 最後に亀田氏個人の来年再来年の活動の展望を聞いた。デカスプロジェクトのモデル事業は3年やろうと言っているので、来年が3年目になる。また、長年続けている公演プロデュースも来年10年になるので、そこでまた新たな10年を考えていきたいと思っているとのこと。また、Arts&Theater→Literacyでのレポート、レビューも引き続き発信していきたいとのことだった。

最後に
 アートというと、狭義的な美術ということだけでなく、芸術全体を包括するものでもあるので、「アートとは?」と話し出すとどうしても漠然とした話になりやすい。
 ただ、漠然としていていいのではないか、それほど自由なものなのだ、とも思う。アートとは何かと答えを求めるとどんどんアートから遠ざかってしまうというジレンマに陥りやすい。
 豊田市という位相で考えると、高度成長の中で失われてきたお祭り/祝祭から戦後の一点集客のためのイベントへの移行が一区切りして、アートという視点/切り口で再び非日常性/祝祭を復活させる試みが今展開しているように思う。
そういう意味では、都市部に比べて、歴史・時間の重なりが目に見えやすい田舎の方が、アートとの親和性が高いのかもしれない。アートの様々な可能性を感じることができた対談だった。


ゲスト:亀田恵子(かめだけいこ)
現代アート・舞台芸術評論家。豊田市在住。2007年、Arts&Theater→Literacyを設立、評論活動のほかにも、アーティストのPR支援、公演プロデュース、講師、ラジオパーソナリティなど様々な活動を行っている。とよた農村舞台アートプロジェクト実行委員、とよたデカスプロジェクトのモデル事業「小渡・アートミルフィーユ」主宰、シデカス隊隊長。
Arts&Theater→Literacyブログhttp://atl-since07.blog.so-net.ne.jp/
サイトhttp://keikoartliteracy.wixsite.com/by-office-k
小渡・アートミルフィーユサイトhttp://www.odoartmille-feuille.com/
とよたデカスプロジェクトサイトhttp://decasu.jp/
  

Posted by <TAG>事務局 at 15:41Comments(0)コラム<TAG>通信映像版

2016年11月10日

【コラム】<TAG>通信映像版第3回「豊田の映画をとりまく状況、そして人材育成とは?/ゲスト岩松あきら氏」要約と所感

1時間超の映像を見る時間を割くのが難しい方のために、<TAG>通信[映像版]の要約をお送りするシリーズの第3弾、今回は豊田の映画、映像をテーマに岩松あきら氏に話を聞いた。
※映像アップより時間が経ってからの公開になってしまいましたが、どうぞ参考にしてください。すべてを要約できてはないので、よろしければどうぞ映像版をご覧ください。
<TAG>通信[映像版] → https://www.youtube.com/channel/UCIjZssyxVzbc1yNkQSSW-Hg

豊田の映画の歴史、全国の映画の歴史 70~80年代
 豊田の映画の歴史について、岩松氏と筆者で考察するに、個人での制作、学校内での制作はあったようだが、組織的に豊田を拠点として映画作りを行っていた団体等はなかったと思われる。これは、ちゃんと分析したわけではないが、全国的にも、そんなになかったのではないか。
 70年代より、8ミリフィルムの民生化により、いわゆるプロではないアマチュアが映画制作をする「自主映画」が盛んになり、PFF(ぴあフィルムフェスティバル)などのコンテストも開催され、映画会社で修行をして監督になるのではなく、自主映画からプロの世界に入る人材も出だした。しかし、そうやって映画を作っていたのは主に学生であり、都市部に偏っていたのではないか。社会人になってもそのまま映画作りを継続する人材は、ごく限られていたのではないかと思われる。
 岩松氏も高校時代より8ミリにより映画制作を始め、学校内での上映や、大学時代は、演劇界と親密になり、大須の七ッ寺共同スタジオで映画上映をしたり、演劇と映像の融合を試みたりしていたが、豊田や三河地域の地方都市を拠点とするものではなかった。

豊田の映画の歴史、全国の映画の歴史 90年代
 全国的に言えば、90年代から、自主映画のメディアが8ミリフィルムからアナログビデオに変遷していくが、編集のしにくさ、フィルム感のなさなどから、8ミリほど盛り上がらなかった。これは、日本の映画界とも連動していて、戦後の映画隆盛時代からテレビの出現等による下降を経て、90年代は日本映画の最低迷期だったこととも重なる。
 ただ、そのころレンタルビデオ店が全国に乱立し、Vシネマ(映画館公開ではなくビデオ販売、レンタルを目的に作られた映画)が多数作られた。ホストの石黒氏も、富良野塾を卒業後、Vシネマのシナリオの依頼がたくさんあったと振り返る。現在、映画監督として活躍する人材も、この時期Vシネマを手掛けている人も多い。
 もちろん映画館の状況も連動した。豊田においては、駅前にあったアート座とコロモ劇場という映画館が90年代はじめになくなっている。全国的にも、駅前の映画館が段々なくなっていった。

豊田の映画の歴史、全国の映画の歴史 2000年以降
 過去2回で演劇、音楽をテーマにした回でも出たが、2000年前後で1つの節目があったというのは映画にも当てはまる。
 映画においては、パソコンの普及により、デジタル撮影、デジタル編集が可能になり、映像撮影・編集が各段にしやすくなったことだ。筆者もその流れの中で、1999年より映画製作を始め(まさにPC購入がきっかけだった)、岩松氏も大学卒業後一旦やめていた映画製作を再開させている。
 また、シネコンができ始めたのもこのころだ。豊田に関して言えば、MOVIX三好が2000年にオープンしている。ここから邦画の活況が始まり、2006年には邦画興行収入が邦画興行収入を20年ぶりに上回ることになる。
 岩松氏が映画作りを再開した2000年代前半を振り返る。そのころ、この地域でも映画を作り始める人や団体が発生してきていて、映像制作の専門学科を持つ大学や専門学校も増えてきていた。岩松氏も名古屋学芸大学やビジュアルアーツの学生と映画作りをしたりしている中、筆者と出会う。
 筆者は、PCを購入したことをきっかけに仲間内で映画制作を始め、その上映の場として2002年から小坂本町一丁目映画祭をスタートさせる。この映画祭は当初より、地元で作られた映画を上映する、というコンセプトだった。映画祭は年1回の開催になり、上映映画の関係者や、映画祭スタッフとして多くの人材が集まり始めていた。
 そんな中、2005年に筆者と岩松氏が出会い、一緒に映画作りをしようとなり、M.I.F.第1作となる「箱」を制作、その時のスタッフを母体にしてM.I.F.(Mikawa Independentmovie Factory)を設立する。
 当時、全国的にも映画制作人口は増加していたと思われる。自主製作映画コンペの老舗となっていたPFF(ぴあフィルムフェスティバル)の応募本数が2000年代より増加しはじめ、他にも全国で映画祭が多数開催されていた。
 M.I.F.においては、設立当時より、地域での活動、地方都市での映画制作をコンセプトとしていた。メンバーの主流が社会人だったということもあるが、東京に出てプロになることを目指すのではなく、自分の住む町を舞台に、地元の人たちと一緒にいい映画を作ることを目的としていた。地方の時代、地域活性化というキーワードが氾濫してきていた時期でもあったが、実感としては、ハードの革新により手軽に映画制作ができるようになり、地元で映画作りを楽しみたいという人が増えてきたのは自然な流れだったと思う。これは、70~80年代にはなかった発想だったと思う。

2000年代後半から現状
 撮影、編集機材の向上などによる映画作りの環境はどんどんよくなってきたはずだが、映画制作人口が増え続けているかというと、2000年代後半以降、そうでもないというのが実感だ。2000年代前半に全国でたくさん開催されていた映画祭はかなり減ったと思われるし、小坂本町一丁目映画祭でも、全国からの上映作品募集を2007年から開始したが、最初の頃は全国各地から応募があったのに対して、最近はほぼ東京地区からの応募になっている。
 これは、主に映像の仕事をしながら、プロへの足掛かりとして自主映画を製作してコンペに出品している人たちで、地方都市で気軽に映画を作ってみました、という人が少なくなっているためだと思われる。岩松氏も、全国の映画祭に招かれていくと、いつも同じ顔触れ、同じ監督がいるようになったように思うとのこと。
 その原因は、推測の域を出ないが、ネット等で公開して映画祭応募までしないのではないか、ドラマとしての映画作りよりYouTuber的な映像が主流になっているのではないか、映画作りにはチーム作りが必要だが若い人たちにはそれが面倒なのではないか、などの理由を挙げた。
 そんな中で、継続して映画作りと映画祭運営をしてきたM.I.F.は全国的にも珍しい存在になりつつあるのではないか。ハードの発達で映画制作はより少人数でできるようになっている中、地方での映画作りを組織的に継続的に行っている団体はそれほど他に例がないと思われる。

三河映画の試み
 岩松氏は、M.I.F.での活動を経て、2007年頃より「幸福な結末」という映画の制作に取り掛かる。これは、ブラックインディという全国的なプロジェクトに関わりつつ、劇場公開作を制作する試みだった。
 岩松氏は、まずはいい映画を作りたいという一心から制作をはじめ、そのためには1人で作るのではなく、人材を結集しなければならないと考えたと語る。その中で、筆者も「幸福な結末」については脚本、制作プロデュ―サ―として参加する。岩松氏は、そのような中で、人材や撮影地、その他さまざまな協力を地方都市で集結していく過程こそが地域振興であることに気付いて行った、映画を作りたかったら東京を目指すという発想ではなく、地方から直接世界に発信すればいいというコンセプトになったと言う。
 また、映画を作ったとして、自分で会場を借りて、友人や知人などに見に来てもらう上映会をするというサイクルから脱する必要性も感じていたという。そしてその先には劇場公開ができるようなクオリティの映画を作る必要があるという思いもあった。
 映画作りを再開しようと思った時に、お金もない、機材もない、スタッフもキャストもいない、これじゃやっぱり映画作れないな、とあきらめかけていた時に、とある人から「そんなもんやればいじゃん」と言われ、すべて自分への言い訳に過ぎなかったと気づいたと語る。東京にいないことを映画が作れない言い訳にしたくなかったという思いが、三河映画という試みに結集しているという。
 三河映画は、現在第2弾「Ben-Joe」の撮影真っ最中だ。

豊田をとりまく映画の状況とこれから
 現在、市民映画(行政なども絡んで、市民一体で映画を作ろうというプロジェクト)の制作が増えている。西三河地域でも、高浜や碧南、刈谷、岡崎などで次々と制作されている。そんな中で、豊田では市民映画が作られてない現状がある。
 1つには、岩松氏も筆者も、市民映画といってあまり面白い映画がない、あるいは監督やスタッフを東京から呼んできて撮ってもらうのはちょっと違う、という思いがあり、市民映画という形にせずに「幸福な結末」や「Ben-Joe」を作ってきたという経緯もある。
 また、一方では、豊田市駅前にシネコンがオープンするのに合わせて「映画を活かしたまちづくり実行委員会」も立ち上がり、やっと行政も絡んで、映画文化を醸成していこうという空気が出始めており、その先には市民映画制作は当然出てくる話だと考える。
 さらに、現在、豊田市に在住している黒土三男監督作「星めぐりの町」の制作も進んでいる(2017年3~4月撮影予定)。これも、豊田を映画の街にする大きなきっかけにしなければならないだろう。
 豊田をとりまく映画の状況は、M.I.F.や三河映画の自主的な活動を経て、シネコンオープンなどを契機に、映画をより市民全体で盛り上げていく時期になりつつある状況だと考える。

そして人材育成とは?
 最後に、人材育成についての話をした。M.I.F.は、映画制作と映画祭運営を両輪の活動としていて、ほとんどみんな映画作りなどしたことのないメンバーが、いちから映画作りを模索し、新しい人材を積極的に受け入れノウハウを引き継いできたのだが、徐々に、映画作りの過程のルーティン化はされたが、いい映画を作りたい、たくさんの人に見せたい、という思いや情熱という一番大切な部分がうまく継承されていかなかったと反省している、と筆者は投げかけた。
 岩松氏は、やはり映画制作の現場で、いい映画を作るには労力とアイディアと思いが必要だということを経験してもらう、現場で人材育成をしていくしかないのではと語る。
 石黒氏も、芝居を見ていて、関心はするが感動はしない、ということが時々あると言う。確かに、若い人たちの作品を見て、もっと無茶やっていいのに、もっと思いをぶつけていいのに、という行儀のよさを感じると筆者も思う。
 ということで、最後は、岩松氏が常に現場で映画制作を続けているように、石黒氏と筆者も本格的に芝居作りや映画作りをする現場を作っていきましょう、となった。


ゲスト:岩松あきら(いわまつあきら)
映画監督。高校時代より自主映画を撮り始め、これまでに国内外の様々な映画賞を受賞。2007年映画製作団体M.I.F.設立に参加、2010三河映画を立ち上げる。“三河映画”は、地元(人・企業・行政)から多くの協力と支援を得て、2011年、第一弾作品『幸福な結末』を完成。現在、小学校教諭だった岩松監督の教え子の身に「実際に降りかかった事件」を原案とした“三河映画”第二弾作品『Ben-Joe』の撮影真っ只中。
映画『Ben-Joe』の公式ホームページhttp://mikawaeiga.com
三河映画facebookページhttps://www.facebook.com/Benjoe.movie
  

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2016年10月25日

【コラム(のようなもの)】5回目の美術館公演を終えて(石黒秀和)










野外群読劇「蜘蛛の糸」youtube公開中 https://youtu.be/cduGWSQWVZI

去る10月23日(日)、豊田市美術館2階大池で、野外群読劇「蜘蛛の糸」を上演した。これは豊田市美術館主催のミュージアムフェスタの一企画として5年前より行っているもので、市民に気軽に演劇に触れてもらいたいと、出演者も公募、上演もホールではなく、美術館の公共空間、いわば普段劇場ではない空間に、その一瞬、突然劇場空間が生まれ、たまたま通りかかった人がしばし演劇鑑賞を体験する、という趣向で行っている。運営はTOC(Toyota Original Company)。ほぼこの企画のためだけに作った任意団体である。1回目となる2012年は、美術館の作品たちが、もしも一夜限り動き出したら? というコンセプトのもと、作品を模した衣装に身を包んだ役者達がスローモーションで美術館内を徘徊するというパフォーマンスを行った。その時期の美術館の企画展「カルペディエム」にちなみ、花の儚い命をテーマにしていた。翌年の2回目は、スローモーションパフォーマンスに加え、美術館玄関前で「銀河鉄道の夜」を野外群読劇として上演した。たまたま企画されていた現代芸術家・高橋匡太さんのライティングプロジェクションに照らし出された夜の美術館で、それは幻想的な作品となった。2014年の3回目は、野外群読劇のみでシェイクスピアの「ハムレット」をとりあげた。公募の出演者も70名近くに及んだが、この時は観客もとても多く、美術館2階のバルコニーからも見下ろすその様はまるで豊田市美術館がローマの野外円形劇場になったかのようであった。昨年の4回目は、豊田市美術館リニューアルオープン記念として「星の王子さま」をとりあげた。この年から、玄関前は石のタイルが割れると困るからという理由で使用NGとなり、美術館庭園を使った。特段石のタイルが割れるような激しい動きをしたわけじゃないし、そもそも玄関で歩いたり走ったりして割れるタイルというのも如何なものか? と未だ釈然としない思いもあるのだが、建物そのものが作品でもある豊田市美術館。そんな要求にいちいち反論しててもしょうがないと、そこはアートの力、ピンチをチャンスに変える気持ちで文句は言わずやってきたつもりである。だが、15:00過ぎの庭園は日陰となり、この年の印象は、とにかく寒かった。そして今年、「蜘蛛の糸」。言わずと知れた芥川龍之介の名作である。会場を大池の中にしたいと言うのは昨年から決めていた。玄関前のように色々理由を付けられて結局NGになるのかな? という心配もあったのだが、過去にダンスで使ったこともあるらしく、案外すんなりOKが出た。とりあげる作品はこれまで必ず美術館の企画展に ちなんでいたのだが、今回は好きなことをやってみたいと実は谷川俊太郎の「20億光年の孤独」をモチーフにしたほぼオリジナル作品にするつもりだった。ところが、そんな時に限って美術館側から企画展にちなみ「蜘蛛の糸」をやって欲しいというオファーがあった。正直、芥川の「蜘蛛の糸」にあまり魅力は感じなかったのだが、作品の舞台がお釈迦様の蓮池であることから、これは、池の中で演じるのはむしろこちらの方がいいのかも、とやはりチャンスと思い原作そのままに上演する事にした。ただ、10月末の池の中に、足首程度とはいえ30分近くも浸かっているのだから、役者の公募に際してはそのことを注意事項とした。それでも20名を超す市民が集まってくれた。稽古は9月から日曜夜に2時間程度、全6回で仕上げた。今回は事前に演出プランを考えず、稽古場でいわば即興的に作っていったのだが、結果、池の中に咲く蓮の花とも蜘蛛の巣ともとらえることができる面白い演出とすることができた。衣装も当初のプランではなかった白く長いベールをつけることで、1列に歩いた時には一本の蜘蛛の糸のようになり、楽屋とした七州城から大池までの道中もスローモーションパフォーマンスとして見応えあるものにすることができた。当日は天気にも恵まれ(考えてみれば過去5回、野外公演でありながら一回も雨に降られていない)、多くのお客様に観ていただけた。
…と、豊田市美術館で試みた5年間の演劇プロジェクトをざっと振返ってみた。実は2年目から、これに加え小さな演劇プロジェクトという出演者2~3名の短編劇も上演しているのだが、いずれにせよ、前述した通り、劇場でもなんでもない公共空間が、その一瞬だけ劇場空間になる面白さを、細々ではあるが実践出来てきたのではないかと思っている。実はこの発想、すでに豊田市も「あそべるとよたプロジェクト」で実践し、今や世界からも注目されている「橋の下世界音楽祭」などもその中にあると思っているのだが、考えてみれば祭りとはまさにそのようなものなのだろう。そんな祭りが町のあちこちで実践され、結果それがこの町の魅力を高め、そこに生きる人の結びつきを強くする。それこそがアートの力であり意義だと僕は頑なに信じているわけだが…。
豊田市美術館での演劇プロジェクト。5回目を終え、来年…については現在まったくの白紙である。そもそもこの企画はあくまで自主企画であり、豊田市や美術館側から予算や入場料収入があるものではないので、全ては自己資金。と言っても、衣装をはじめ裏方は知恵を絞って少ない予算で対応してくれているわけだが、それでも幾らかはかかるもので、昨年からは数百円の出演料をとっているのだが5年の間にそれなりの出費にはなっている。やりたいならやってもいいよ、という、いわば美術館側からの好意でやらせてもらっているので、こちらの気持ちだけで決められるものでもないのだが、庭園もマルシェで使われるようになった今、正直、そろそろお金も上演場所もないなぁというのが本音。それでも10年は続けなくちゃいけないという気がしなくもないのですが…。
一方、今年は新たな展開の予感も。12月20日に「蜘蛛の糸」を寺部の守綱寺で再演します。と言っても平日の小さな読み聞かせ会での上演なので、出演者も10名程度、基本親子向けの池にも入らない別バージョンになる予定ですが、それでも「蜘蛛の糸」のお寺での上演なんて、なんとも雰囲気ありそうではないですか。一期一会、予測不能な野外劇はぶっつけ本番の1回きりが全てと、今まで再演などはしてこなかったのですが、正直、本番終えてみてはじめて気づく点も多々あるわけで、そこらへん再度創り直してみるのも悪くないなと、今年はじめて思ったりしています。ついでに、本格的な野外劇の上演も、再び出来ないかと、2回目のとよた市民野外劇から10年目の今、ふつふつ思い始めたりしていて…。
夢だけは膨らむ。
さて、どうしたものか。

石黒秀和  

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2016年08月24日

【コラム】<TAG>通信[映像版]第2回「豊田は本当に音楽不毛の地なのか/ゲスト正木隆氏」要約と所感 清水雅人

 1時間超の映像を見る時間を割くのが難しい方のために、<TAG>通信[映像版]の要約をお送りするシリーズの第2弾、今回は豊田の音楽をテーマに正木隆氏に話を聞いた。
すべてを要約できてませんので、どうぞ<TAG>通信[映像版]もご覧ください → https://www.youtube.com/channel/UCIjZssyxVzbc1yNkQSSW-Hg

豊田の音楽の歴史 70年代後半~80年代
 正木氏に1970年代後半からの豊田の音楽の歴史(ここでは、ロックポップスに限定する いわゆるバンドライブ史を中心に)を聞いた。正木氏がバンド活動を始めた70年代末頃、豊田市内でアマチュアバンド・ソロがステージに立つ一番身近な場所は、YAMAHAが主催するコンテストだったという。当時ミッドランドというコンテストがあり、豊田、岡崎、刈谷など各市で開催され、そこを勝ち抜くと名古屋での東海大会、そして全国大会へ進むことになる。豊田では、中央公民館(現在の視聴覚ライブラリー駐車場にあった)か愛知県勤労福祉会館のホールで開催されていた。ここでは、オリジナル曲を1~2曲披露する。それでも毎回20~30組ほどのバンド等が出演していたようだ。

 YAMAHAはポプコン(ヤマハポピュラーソングコンテスト)も主催しており、数多くのアーティストを輩出した。地元からは、アラジンというバンドが「完全無欠のロックンローラー」で全国グランプリを受賞たこともあり、レコードもヒットもした。東海地区からは多くのアーティストが全国に羽ばたいていった。ポプコンは、80年代末より、アマチュアバンドコンテストBAND EXPLOSIONやTEENS' MUSIC FESTIVALに引き継がれていく(一応現在もコンテストは続いているようだ)。
 これらは各市にあるYAMAHA特約の楽器店が開催していた(豊田は名曲堂、岡崎は大衆堂、刈谷はロッキンなど)。楽器販売やスタジオがあり、またアマチュアミュージシャンあがりのお兄さんが楽器店で働くというパターンもあって、楽器店が学生などのアマチュアバンドたちの拠点、たまり場のようになっていた。アラジンの高原兄氏がふらっと楽器店に顔を出すなんてこともよくあった光景だったようだ。
 筆者も恥ずかしながら高校生時代バンドをやっていたが、80年代後半頃にもまだそのような状況はあった。上記のようなコンテスト以外にも楽器店が主催して出演バンドを募って中央公民館等で開催するライブが年に数回はあり、700席あった観客席が結構埋まっていた記憶がある。

 正木氏は、自分は70年代末以降しか知らないが、それ以前はフォークで同じような状況があったのではないかと推測する。その1つとして豊田市民音楽祭の存在があるようだ。豊田市民音楽祭については、正木氏が調べても詳しいことが不明なのだが、そもそもは豊田市民演劇祭(前回ゲストの岡田隆弘氏がその存在を話している)と対で始まったのではないかとのこと。行政主導で始まり、コンテストではなかったようだが、正木氏がこの頃出演した時の写真を見ると、第15回との看板が写っており、すでに歴史があったことが伺える。

 また、その頃、豊田市内にライブハウスがちらほらとできていたという。スナックを改装したような小さな店が多かったが、出演者オーディションを行い、ライブハウス主催のライブを開催していた。

豊田の音楽の歴史 80年代末~90年代
 そして、全国的には、ビートロック・ビートパンク系(BOØWYなど)の隆盛とイカ天(「いかすバンド天国」というテレビ番組)のヒットなどにより空前のバンドブームが巻き起こる。豊田でも、豊田市駅周辺が再開発され(そごうの開店)、豊田都市開発を中心にジョイカルウェーブが立ち上がり、とよたミュージックバトルを開催(このバンドコンテストは賞金が出ることが話題だったようだ)、また、中京テレビの企画で始まったロックフェス「GO! GO!ROCK」「LOVE ROCKS」がこの頃名古屋開催を追われ、白浜公演等で開催している。
 しかし、90年代後半、バンドブームの終焉により、一気にこれらも衰退していく。

 これは、前回の演劇テーマでも出た話題だが、ちょうど2000年前後に1つの節目がどのジャンルでも起こっていることがわかる。考えてみれば、戦後から高度成長期~バブル景気~バブルの崩壊で、いわゆる“戦後”が終わったという社会的な節目が、文化面にも影響したと見るのが自然だろう。90年代~00年代の失われた10年(又は20年)が、経済だけでなく、社会全体、日本人のアイディンティティに大きな変化をもたらしていて、その混乱は現在もまだ続いていると見るべきなのだろう。

 豊田の音楽に目を向ければ、コンテストを中心としたライブ発表の場があり、主に楽器店がアマチュアバンド・アーティストのサロン的な役割を担っていた時代が確かにあったが、その場所が継続的なライブができるライブハウス等に展開するまでには至らず(ライブハウス的な場所はできてはいたが長く続く店はなかった。豊田周辺では岡崎のカムホールが長く継続しているライブハウスの稀有な例ではないか)、バンドブームの終焉とともに、バンドコンテスト・ライブや楽器店サロンは消滅(または知った者同士でこじんまりと開催、サークル化)していった。

00年代以降~現在
 2000年以降の豊田の音楽シーンを語る上で、TURTLE ISLAND(タートルアイランド)を抜くことはできないだろう。彼らは豊田をベースにしながら、日本的アジア的な土着ミュージックとパンクなどを融合した音楽で世界中に活躍の場を広げていたが、「世界中で演奏をしている自分たちが地元豊田でやる場所がない」という想いから、「ないなら作ろう」と動き始める。そして、その思いは、様々な試行錯誤ののち、トヨタロックフェスティバル、世界橋の下音楽祭へと繋がっていく。
 正木氏は、彼らが中学時代に楽器店のスタジオに練習に来ていた頃を知っていて、これらのイベントでお互い「何やってるんだ?」と再会したと言う。
 トヨタロックフェスティバル、世界橋の下音楽祭は全国的にも大きなフェスに成長している。また、最近では、TURTLE ISLAND(タートルアイランド)は、豊田市まちなかのコンテンツニシマチという空き家利用事業で拠点を作ったり、豊田市駅前でイベント開催するなど、より市民に密着した活動を展開している。

豊田の音楽のこれからと課題
 正木氏は、豊田の音楽の現状について、上を見ると、TURTLE ISLAND(タートルアイランド)たちの活動で、全国のトップクラスの音楽、面白い音楽を豊田で聞く機会は増えている、下を見ると、小さなお店等でアマチュアが演奏できる場所もそこそこある。しかし、例えば、俺たちもトヨタロックフェスに出たい、と思った時に、じゃあどうしたらいいのかわからないだろう、と話す。トヨタロックフェスの運営会議等でも、地元のバンドを出演させたい、でも誰がいるの?となってしまう、とのこと。
 どうやったらトヨタロックフェスに出れるのか?答えは簡単で、ライブを重ねて、クオリティを上げて、ファンを増やしていって・・・ということになるのだが、それをやっていく場所は現在の豊田にはないのが現状だ。
 だが、これは豊田だけの問題ではなく、全国的な問題のようだ。70年代後半からたくさん出現したライブハウスは、自主興行をメインに(ライブハウス自体が企画したライブ)展開していたが、現在はほぼ自主興行はなく、貸ホール化(お金を出せばだれでも使用できる)してしまっていると正木氏は言う。自主興行では、どのようなグループのどのようなライブを展開して集客するかというプロデュースが必要であり、それは必然的に1つのシーンを作っていくことになるが、貸ホール化ではそれは望めないのは確かだ。
 正木氏は、そんな状況にくさびを打つ意味もこめて、豊田市民音楽祭を復活させて開催している。出演バンドを募集すると毎回50~60組ものバンドが応募してくるそうだ。
 
 “豊田は本当に音楽不毛の地なのか” そんなことはない、というのが回答だろう。音楽をやっている人、楽しみたいと思っている人は豊田にもたくさんいる。様々な歴史もあり、トヨタロックフェスも橋の下世界音楽祭もある。だが、それらの人々やイベントを繋ぐような拠点は、まだできあがっていないと言える。それは、単純に場所がないということではなく、プロデュースもしていく拠点が必要だと感じるし、それは1か所でなくてもいい。

 正木氏は、音楽をやっていこうという若者に、意識を変えて欲しいとも訴える。例えば、豊田市民音楽祭では出演者にチケット販売を割り当てるが、売らないか、売れないならせめて配ればいいのにと思うがそれもしないのが現状だと言う。それに比べると、TURTLE ISLANDは橋の下世界音楽祭で、あっちにもこっちにも出ずっぱりで、とにかく音楽やりたい、出たい、魅せたいというあの熱量はすごい、と話す。
 場所がないから人が育たないのか、人が育たないから場所ができないのか、、、はニワトリとタマゴの堂々巡りだが、できない理由を挙げているだけでは前に進まない。模範解答をすれば、場所と人は同時に育っていくものだと思う。
 CDが売れない時代と言われて久しい。しかし、ライブ動員は増えているようで、生の演奏を楽しむという流れができつつあることは、地域での音楽シーンには追い風なのだと思う。
 例えば、筆者はご当地アイドルStar☆Tを運営し、駅前でのライブを定期的に行っているが、いわゆる地元のミュージシャンたちとのつながりはほぼないに等しい。今回の対談をして、これから、何か繋がれることをしていきたいと思った。
 行政が主導するあそべるとよたプロジェクト(豊田まちなかのスペースを窓口を1つにして利用できる事業)で、まちなか地域でのライブ開催の機会が増えているとも感じる。また、エフエムとよたなどの地域メディアももっと地元の音楽シーンにコミットしてほしいとも思う。
 これらが複合的につながって、豊田の音楽シーンが形成されていくことをせつに願っている。

※映像版ではここにはおさまりきらないいろんな話をしているので、お時間があればぜひ映像版をご覧ください
こちら → https://youtu.be/sUpbNChWeyo

正木 隆(まさきたかし) 
音楽プロデュ―サ―、音響オペレーター。豊田市出身・在住。1963年生。学生時代からバンド活動を開始し、豊田、名古屋にて活動。その後市内楽器店に勤務。1997年独立し、(有)まさき起業、以降豊田市内をはじめ東海地域のイベントの音響を数多く手掛ける。イベント音響以外にも、豊田市民音楽祭の運営、豊田ご当地アイドルStar☆T楽曲プロデュース、演劇音楽制作などにも携わる。豊田市民音楽祭副実行委員長、トヨタロックフェスティバル実行委員、とよた演劇アカデミー実行委員。

清水雅人
映像作家・プロデューサー。<TAG>発起人。映画製作団体M.I.F.元代表。映画製作の他にも、小坂本町一丁目映画祭運営、豊田ご当地アイドルStar☆Tプロデュ―スなどを手掛ける。  

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2016年08月20日

【コラム】総製作費はプライスレス 市村

映画の撮影を取材しました。

現場は愛知県の奥三河、設楽町(旧津具村)の廃校。

木造校舎で、窓枠や廊下の雰囲気が味わい深く感じられました。

ここに東京などの各地から俳優が集まり、監督ら撮影陣とともに合宿しながら撮影が続いていました。

普通、映画の撮影といえば億単位の予算を想像します。

角川映画が全盛期のころ「総製作費50億円!」などという宣伝文句が話題になりました。

設楽町の廃校で撮影中の映画には、そのような予算はありません。

俳優も撮影陣も基本的にボランティア。

食事は叙々苑の焼肉弁当のはずなく、地元から頂いた野菜などの食材で自炊していると聞きました。

「お金がなくとも、人と人のつながりで良い映画が作れることを証明したい」

岩松あきら監督の言葉が印象的でした。

撮影した映像の一部を見せて頂きました。

瞳の動きで微妙な感情を伝えるような、繊細な場面でした。

この先どうなるのか、非常に気になる展開でした。

詳細は「三河映画」で検索してください。

プロフィール
市村直生
とよたみよしホームニュース記者。中京大学を卒業後、2001年から矢作新報社で記者の仕事に携わり、2007年から現職。文化活動やスポーツで活躍する人、週末のイベントなど、地元の話題を取材しています。
メールthn1@hm9.aitai.ne.jp  

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2016年08月13日

【コラム】(仮称)とよた演劇人協会設立 石黒秀和

(仮称)とよた演劇人協会なるものを設立しようと思っている。とよた演劇アカデミーをはじめて9年目。すでに8期生までが修了し、幾つかの劇団が誕生し、それぞれの公演のほか、実行委員会形式で「短編演劇バトルT-1」や「空の舞台」といった演劇イベントも開催してきた。今年4月、アカデミー1期生と3期生の合同公演の後、喜楽亭の縁側で現アカデミー実行委員長でもある太田竜次郎から既存劇団のネットワーク化の必要性を説かれた。それは僕がT-1を5年でやめ、それはT-1に限らず、実行委員会解散とともにいつも積み上げてきた大切なものがゼロになってしまうことへの不満と言うかやりきれなさの表れでもあったのだろうが、いずれにせよ、富良野塾の後輩でもある彼の言葉に、僕はようやく重い腰を上げた。
7月の空の舞台開催の2週間前、空の舞台の仕掛け人でアカデミー副実行委員長でもある図師久美子と太田を丸山町のカフェ・ダブルに呼び出し、既存の演劇人のネットワーク化や研修の必要性などについてそれぞれの意見を交換した。翌週、半世紀以上に渡って豊田の演劇界を支えてきた岡田隆弘氏にそのことを相談し、氏も、そのような組織化は長年考えてきたことなので、次の世代が本気ならば応援するとの言葉をもらう。その後、文化振興財団の担当者にも、立ち話程度ではあるが協会設立の意向を報告。そして、この度、このコラム上にて、協会設立の意志を正式に表した次第です。
ん? まだ正式に設立してないの? はい、まだ設立はしていません。
来る9月6日(火)19:00~ 豊田市美術館敷地内にある七州城にて、協会設立のための発起会とでも言うんでしょうか、集まりを持ちたいと思います。これは、まさに誰もが参加できる自由参加の発起会。場所を七州城にしたのは…なんとなく、城で談義するなんて、意味ありげでいいじゃないですか?(正確には隅櫓ですが…) 歴史をここから動かす! なんて勝手に解釈してもらってもいいし、実際、豊田の演劇の歴史をもう一度ここから動かす! くらいの意気込みで…ハイ。ともかく、興味ある方なら団体個人経験問わずどなたでもお気軽にお越しください。来たが最期、強制的に会員に! なんてことは考えてませんし、そもそも協会の名称すらまだ決まってない状態ですから、規約も役員選出もこれから。ちなみにこれはとよた演劇アカデミー修了生のための協会ではありませんから、豊田で演劇を愛する方ならどなたでも。あ、豊田外でも構いませんよ。年齢制限も特に設けません。
発起会参加への申込は不要。駐車場は豊田市美術館を開放。ともかく夢を語れたらと思います。この街の、演劇の未来を! ご参加、お待ちしてます!

プロフィール
石黒 秀和
富良野塾出身。作・演出家。日本劇作家協会所属。〈TAG〉発起人。  

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2016年08月06日

【コラム】本当に文化不毛? 市村直生

この地域で取材をしていると「豊田は文化不毛の地」という一言がよく聞かれます。

実際に文化活動に携わっている人にしかわからない、様々な実情があるのだと思います。

しかし第三者の目からは、豊田でも多種多様な文化が芽生え、育っているように見えます。

特に、若い世代の活動が面白く映ります。

全国の自主映画を集めた映画祭、喫茶店でゲリラ演劇を披露する企画、ご当地アイドルStar☆TのZepp名古屋でのワンマンライブなど。

演劇の分野では新しい劇団が次々に旗揚げされ、「短編演劇バトル」などの多彩な活動が展開されています。

豊田大橋を拠点に開催されている「橋の下世界音楽祭」なるイベントは、相当な盛り上がりだとか。

そういう活動を、ローカル紙の記者という立場から応援したいと考えています。

話題がありましたら、教えてください。


プロフィール
市村直生
とよたみよしホームニュース記者。中京大学を卒業後、2001年から矢作新報社で記者の仕事に携わり、2007年から現職。文化活動やスポーツで活躍する人、週末のイベントなど、地元の話題を取材しています。
メールthn1@hm9.aitai.ne.jp  

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2016年07月27日

【コラム】とよた演劇祭『空の舞台』観劇レポート 清水雅人

 7月23・24日に、とよた演劇祭『空の舞台』が開催された。
 これは、とよた演劇アカデミー修了生の発表の場の1つとして、<TAG>発起人でもある石黒秀和氏主導で昨年まで開催されていたT-1とよた演劇バトルの後継イベントとして、アカデミー修了生たちが自ら企画して開催されたとのこと。豊田で演劇の公演をどんどん打っていって欲しいと思っているので、まずは開催されたこと祝福したい。
 会場は、豊田市駅前にある参合館のコンサートホールと能楽堂の間のフロアにある多目的ルームを使っていた。筆者もこんな部屋があることを知らなかったのだが、15m四方ほどの小さなスペースで、キャパシティ50くらいだろうか。窓側は全面ガラス張りで、8階ということもあってかなり見晴らしもよく(『空の舞台』はそこから名付けられたと思われる)、演出上も活用されていた。芝居をするのにちょうどいい箱がないというのは、豊田の演劇人材の間では長年言われてきたことだが、こうやって新しい場所を試していくのもいいことだと思う。専用劇場には及ばないかもしれないが、今回のように、工夫1つで使える場所はあると思う。

 それでは、上演された6本の短編演劇(30~40分程度)を1作品ずつレポートしたい。ちなみに筆者は初日7/23に観劇した。

「唐麦」七味とうがらし(作:畠中直美 演出:古場ペンチ)
 6作品の中ではもっとも安定していたと思う。お盆に亡くなったおばあさんが帰ってくるという日本古来の言い伝えをモチーフにしながら、次女は独身、長男はバツイチ、孫も恋愛のにおいなしという設定が今風でいい。何より、演者の演技がしっかりしていて(筆者は特に孫役の方の演技にとても惹かれた)、設定にすんなり入ることができた。的確な演出がなされていた証拠だと思う。
 芝居の最後、幽霊のおばあさん役の演者が二役で長女として出てきた時の、静かにドキッとする瞬間、登場人物たちと観客の共感がピタッと重なる感じ、これこそ芝居の醍醐味だと感じることができた。

「君がそばにいてくれるかぎり」青春(アオハル)創造劇場
(作:青春(アオハル)創造劇場 構成:図師久美子 脚色・演出:小林俊彦
 とよたこども創造劇場出身の中高生が、自身のキャラクターを活かした絶妙の役作りで演技がとてもみずみずしく、楽しめた。ストーリーにもう少し工夫があってもとも思うが、演者のよさがそこを補って30分を一気に見せた。

「フィクション」劇団エンジン(作・演出:太田竜次郎)
 ネタ切れの作家のところに強盗が入ったら、、、という三谷幸喜的なシチュエーションコメディで、もっとも観客が入りやすかった作品だったと思う。が、シチュエーションコメディの肝は、周到な伏線、ネタ振りだったりするので、そのあたりがもう少し丁寧だとよかった。演者の演技が安定していただけに、惜しい。
 段ボールのみによる美術が世界観を作り上げいて、非現実的なシチュエーションコメディへ観客を導く雰囲気を出していたと思う。

「子どもたちの子どもたちの子どもたちへ」劇団~SUN~(作・演出:どうまえなおこ)
 ブラジルと日本、川のこちら側と向う側、祖母と母、母と子、、、さまざまな横軸と縦軸が交錯する世界観、幾何学的と形容したくなる構成感は、作演出のどうまえ氏が得意とするところで、変わらず作家性を感じた。ただ、もっと何か、、、圧倒的な何かが欲しいと思うのは筆者だけだろうか。観劇時、知り合いの高齢男性が偶然隣になったが「よくわからんな~」とつぶやいていた。わかりやすいオチをつけろということではなく、もっと圧倒的な作家性を出してしまうとか。期待しているだけに突き抜ける何かを探り当てて欲しいと思う。

「願い」劇団カレイドスコープ×ひつじの森のよつば村(作:足立和久 演出:若杉理恵)
 ロールプレイングゲーム風の世界に入り込んでしまった設定は面白いし、設定を作り上げるためのセットや衣装もよかったのに、あえてなのかベタを外すようなストーリー展開や演技はちょっと残念だった。シチュエーションを活かしてもっとベタに笑いを取りにいってもいいのに、と思ってしまった。

「空の介護」演劇集団∞~むげんだい~
(作・演出:小林俊彦)
 とよた演劇アカデミーを昨年度終了した8期生のグループということで、つたなさは感じたが、演者のみなさんが楽しんでる雰囲気が伝わってきた。ぜひ、これからもがんばっていって欲しい。

 筆者は、恥ずかしながら地元での観劇は約2年ぶりだったが、演者のレベルは確実に上がっている印象を受けた。もっと長いものを観たいと思わせる劇団もあった。ただ、全体的に、自身の劇団のウリは何かを把握して、ここだけは負けないという突出した何かを魅せる努力をもっとして欲しいとも感じた。良く言うとどこもまとまっている、悪く言うとどこもこじんまりと小さい。「まだ上手くやろうとするほどのベテランじゃないだろう?もっとパワーを見せてくれよ、パワーを!」ってちょっと思っちゃいました。
 今回は、短編演劇祭というフォーマットなのでしかたない部分もあるとは思うが、各劇団が色々と発表の場を作っていって欲しいと思う反面、時には豊田の演劇人材のタレント(才能)を結集させる芝居を打って欲しい、とも思わせた観劇だった。

清水雅人
映像作家・プロデューサー。<TAG>発起人。映画製作団体M.I.F.元代表。映画製作の他にも、小坂本町一丁目映画祭運営、豊田ご当地アイドルStar☆Tプロデュ―スなどを手掛ける
  

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