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2018年07月13日

【コラム】劇団ドラマスタジオ公演「煙が目にしみる」観劇レポート 田村優太

 6月23・24日に市民文化会館小ホールで開催された、劇団ドラマスタジオ第23回公演「煙が目にしみる」を観劇してきました。

 劇団ドラマスタジオは2000年に旗揚げされた、豊田市内でもっとも歴史のある劇団です。

 この作品は田舎の斎場を舞台にした火葬される二人の男とその家族にまつわるお話で、20年ほど前に堤泰之さんによって描かれた作品です。

 開演後、まず目を見張るのは斎場の窓ガラスに映る大きな桜の木です。正確にはわかりませんが、5,6m程の大きさで、幹も枝もしっかりと作られているように見えます。
 この桜の木を若干幻想的な照明でライトアップし、花びらをひらひらと散らせている画面がとても美しい絵となっておりました。

 話としては、火葬される二人の会話から始まるのですが、お二人とも小ボケを少々おりまぜて、見ていて非常に楽しかったです。
 ただ残念だったのは、この二人の役者の年齢が離れすぎているというところです(実際の年齢はわからないので、あくまで見た目がですが)。この二人、見た感じは30代前半と60代の男性なのですが、設定としては、30代の男性の方が、もっと年輩のようになってると思われる内容でした。この年齢差のせいで二人が言い争う所や、そのほか色々な部分で違和感を感じてしまい、上手く入り込めなかったです。
 二人は最後まで物語のキーとなる人物なので、そこらへんは拘って欲しかったと感じます。

 中盤からは、各家庭の問題が浮き上がって来て、テンポがよく話が進んでいきます。後半は二人と家族の別れを中心に描き、しっとりとした中、ちょっとしたお笑い要素があり、非常に楽しく見ながらも、涙腺が緩んでいく、不思議な感覚に陥っていきました。
 その分、家族の問題がひと段落してから終演まで(起承転結の結に当たる部分)が長く、後半の感動が冷めていく感じもありました。このあたりは戯曲による部分も多いかと思うのですが、もう少しテンポよく終わらせて欲しかったとも思いました。

田村優太プロフィール
とよた演劇アカデミー9期修了生。現在演劇アカデミー9期生を中心に結成された「劇団 栞ちゃんのしおり」の代表を務める。
  

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2018年06月05日

【コラム】舞台照明と街路灯 本多勝幸

 <TAG>通信[映像版]でもお話した通り、豊田市駅前で都合三回、唐十郎の紅テント公演を行いました。その時できたご縁で横浜赤レンガ倉庫一号館ホールこけら落とし、花園神社、大阪中之島等々ご案内をいただく度に各地の紅テント公演に出かけては観劇を楽しみました。沢山の感動といろんな気づきがあり、後の挙母激励フェスティバル(石黒さんとやった挙母神社テント芝居)に続くのですが、商店街からみて何が一番参考になったかと言えば、それは「舞台照明」です。狭いテント、特別な仕掛けの無い小さく薄い舞台が、シンプルな照明の切り替えで昼が夜になり屋上が地下になり団欒の場が凄惨な事件現場と変わることに驚きと、これは使えそうだという感触を得ることができたのです。

 というのは、この頃ちょうど一番街商店街を含む竹生線の改修工事の話が纏まりつつあり、歩道に立つ街路灯の建て替え計画も同時に進んでいて、アイデアを求めていた時期と重なったからです。いくつもの街路灯会社がカタログを持って売り込みに来ていました。しかし、どこも「洋式がいいですか?和式がいいですか?」とトイレかと思うような紹介や、「うちの街路灯は明るいですよ」でも照らされる街の明るさは未計測、こんな感じのところばかりで、満足できる街路灯論を持った会社はひとつも無く困っていました。その私たちが紅テントから照明ひとつで景色がどれだけ変わるものかを学ぶことができました。目立つ街路灯ではなく、街を目立たせる街路灯を欲する気持ちになっています。街路灯会社にも舞台を照らすような灯りを求め、こちらからも具体的な設計について提案をするようになりました。幸運なことに一社だけですが提案を検討してくれる業者があり、それからはその会社と共にデザインを起こし、一番街商店街の夜景作りを行いました。

 その結果できあがった一番街オリジナル街路灯は色がピンクで高さ7メートル、一基あたりLED16灯というものでした。色は歩道のタイルと同系色で舞台照明である街路灯を街の中で目立たせないため、高さは歩道車道両方とお店の看板を同時に照らし且つ光源を歩行者の視野から外すため、LED16灯は街路灯の立つ場所に応じて一灯一灯の角度を調整するための仕様です。

 さて、立てられてから約10年、今でも商店街としては充分満足できる街路灯だと思っています。どうでしょう皆さん、ぜひ街を訪れてご覧になってください。紅テントの舞台照明が発端となった、いまだによそとはちょっと違う街路灯の光、照らされた街を楽しんでみてください。一番街は南は豊田信用金庫本店から北はコモ・スクエアまでです。街路灯の光なんて、普段は意識しないものだと思いますから、このコラムをお読みいただきそして街路灯と街を見て、さらに感想まで伺えたら最高です。

 <TAG>の収録が終わってから芸術とはなんだろ、文化とはなんだろ、ずっと考えていました。
 芸術は独りでも成り立つものかも知れませんが、文化には多くの共感する人たちが必要です。ハレ(特別な場所やもの)からケ(日常の生活)へ、人と人の間へ滲み出すものがなければ芸術は民衆の文化になれないと思います。

 私が関わっている豊田おいでんまつりにしても、踊ってる人と観に来た人たちだけが満足していてはだめで、テレビ・ラジオで見聞きするだけ、ひとづてに話を聞いただけの人でさえも、市民であればだれもが「豊田市にはおいでんまつりがある」と誇らしげに言えるようになって初めて豊田の文化だと、行政の言ういわゆるWe Love だと、文化として市民の共感を生んでいるんだと言い切れると思うのです。イベントとしての成功だけを追い求めている間はまだまだです。

 さて、長くなってしまいました。豊田市で開催されるイベントは、終わったらサラッと忘れて次のこと、って言うものが多いので、さしあたって来年開催されるラグビーW杯がこの街に余韻や残り香を残せるものであることを心より祈り、この原稿を終わりとさせていただきます。ご精読ありがとうございました。


本多勝幸(ほんだかつゆき)
ホンダ薬局店主、一番街商店街理事長。1960年生まれ。豊田に生まれ、小さいころから音楽・オーディオ機器にのめり込む。大学卒業後修行時代を経てホンダ薬局を父より継ぐ。JC(青年会議所)活動の後、一番街商店街理事長に就任、他にも豊田おいでんまつり踊り部会長など。また、唐十郎氏が主宰する「紅テント」の招へいや、挙母神社でのテント芝居「翔べ!ジョニー」(2009年 石黒秀和作演出)の主催・出演、「サードlab.」出演(2011年)など演劇等文化芸術人材との交流も深い。2018年5月<TAG>通信[映像版]ゲスト出演。  

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2018年05月29日

【コラム】二重性と後ろめたさの先に―<TAG>通信[映像版]を通して― 清水雅人

 忙しさにかまけて、やりたいことをなかなかやり切れてない<TAG>だが、そんな中なんとか2016年のリニューアル以来続けてこられたのが<TAG>通信[映像版]だ。これは、<TAG>発起人の石黒秀和氏と私がホストになって、豊田の文化芸術に関わるゲストを毎月お呼びしお話を聞き、その映像をノーカットで公開しているもの。
 そもそもは、「お近づきのしるしにちょっと一杯飲みますか」なんて時に伺う話を記録しておきたい、せっかくだからみなさんに公開しようという軽い気持ちで始めた企画だが、なんとか2年を迎えようとしている。ゲストも20組を数えた。
 ここまで続けてこられたのも、ひとえに様々なジャンルで活躍する人の話を聞くのは楽しい、ということに尽きるが、特にゲストの生い立ち、現在の活動等に繋がるまでの経歴等をお聴きする中で、自分のこれまでの人生(というと大げさだが)も振り返る機会にもなって、そういう意味でも楽しい。
 今回は、そんな中で感じたことの1つをまとめてみたい。

 いつの回だったか忘れたが、一緒にホストを務める石黒秀和氏(氏と私は1969年生まれの同い年である)の「小さい頃、トヨタ自動車だけには入りたくないと思っていた」という発言がとても印象的に頭の中に残っている。
 それまでの回でも、「日本の文化がこれほど世界に発信されるとは思わなかった」「アメリカやイギリスの音楽こそが目標だった」等々、演劇や音楽の歴史について、ゲストに聞いたり、自分の過去を振り返る中で私自身感じたり発言してきたが、石黒氏の発言には深く頷かせられた。
 そう、私も若い頃は、豊田という田舎を早く出たいと思っていたし、トヨタ自動車には入りたくないと思っていたのだ。
 だが、そこを定点として自分のこれまでを俯瞰的に見てみると、すべてが二重性を帯びていることに気づく。若い頃は東京に行きたいと思っていたが現在はこの豊田という地方都市で活動することこそに意味を見出している、若い頃はアイドル音楽を下に見ていたが現在はアイドルにこそポップスの普遍性を感じている、若い頃は漫画やアニメをバカにしていてが(本当は大好きだったのだが)こんなにも世界に発信するジャンルになるとは思ってもいなかった、などあげればキリがないが、私はこの二重性の中に今もあり、薄々ながら後ろめたい、昔は逆のことを思っていたのに、という気持ちをずっと持っている。
 これは、世代的なものなのかもしれない。私が10代の頃までは、日本の文化芸術(特にエンターテイメントの分野は)が世界に評価されることはまれだったし、日本の車や電化製品は世界で売れ始めていたが日本製はすべてモノマネだと言われて、そこに誇りは感じられなかった。私たちの世代の子供の頃は、まだ戦後は終わってなく、アメリカに犯された(アメリカのすべてに憧れた)最後の世代なのかもしれない。
 しかし、同時にすべてを世代論で片づけてしまうのも危険なのだろう。これまでの20組のゲストの中で、昔から地元にいることに意味を見出しブレてない人もいたし、自然に地元にずっといた人もいるし、逆に外を目指した人もいたし、外で敗れて戻ってきたことを糧にしている人もいた。そこに世代論が当てはまらない場合も多々あった。

 ここで言いたいのは世代論ではない。ふと思ったのは、しかし、この二重性/後ろめたさこそが、私たちの強みなのではないかと。私たちというのは、私と石黒氏のことだ。氏と直接、この二重性について後ろめたさについて話したことはないが、きっと同じ思いを持ってきているのだと思う。
 間違っていたことも多かった。それを忘れてはならないと思う。自明のもの、当たり前と思うことも疑ってみる、逆から見てみる、違う見方をしてみる。20年後どうなっているか、世界の日本ブームはすっかり終わっているのかもしれない、社会はもっと悪くなっていることを想像しがちだが、もしかしたらよくなっていくのかもしれない、国家というシステムは崩壊しているかもしれないが、代わりに都市という範囲で多くのものが循環しつつ、直接世界と繋がっているかもしれない。
 <TAG>通信[映像版]で、色んな人の話を聞くことで、いろんな視点、考え方があることを知ることができるのは本当に楽しい。当たり前で変えようがないと思っていること、できないと思っていることをひっくり返してみる、疑ってみる、試してみる。
 <TAG>自体もそういう転換ができないか、地域の文化芸術の情報の流通の在り方をひっくり返せないか、というところから始まっている。  <TAG>通信[映像版]は、豊田の戦後文化史(特にホストの2人が生きてきた昭和40年代以降)を知ることができるという面もあり、記録としても貴重だと思っている。現在はあたりまえのように感じていることが、20年前30年前はそうでもなかったということを知る、思い出すこともある。
 もうしばらくは、この挑戦を見守って、お付き合いいただけるとありがたい。

清水雅人
映像作家・プロデューサー。<TAG>発起人。映画製作団体M.I.F.元代表。映画製作の他にも、小坂本町一丁目映画祭運営、豊田ご当地アイドルStar☆Tプロデュ―スなどを手掛ける。  

Posted by <TAG>事務局 at 16:16Comments(0)コラム

2018年05月24日

【コラム】<TAG>通信[映像版]第20回「商店街とアート、商店街とまちづくり(ゲスト本多勝幸氏)」要約と所感 清水雅人

1時間超の映像を見る時間を割くのが難しい方のために、<TAG>通信[映像版]の要約をお送りするシリーズ、今回は一番街商店街理事長の本多勝幸氏に話を聞いた。
※すべてを要約できてはないので、よろしければどうぞ映像版をご覧ください。
<TAG>通信[映像版] → https://youtu.be/0vKnh_c7s20

豊田中心市街地の変遷Ⅰ(30年ほど前まで)
 今回のゲストは、豊田中心市街地にある一番街商店街にて薬局を営む本多勝幸氏をお招きした。本多氏は、一番街商店街理事長を長年務められ、また、豊田おいでんまつり踊り部会長など商店街やまちづくりに関する活動も多数されている。
 一番街商店街は、喜多町3丁目交差点(コモスクエアの東側)~豊田信用金庫本店・桜城址公園までの通りを挟んだ商店街である。氏はその中ほどでホンダ薬局を営んでいる。
 本多氏は生まれも育ちも現住所地とのこと。もともと本多家は江戸時代より呉服屋を営んでいた、倉庫には江戸時代のものが結構あったりするが、それはうちだけでなくあのあたりの家はみんな古いとのこと。
 そもそもは、桜城の城下町、挙母神社の門前町として栄えた地域で、その後鉄道が通り豊田市駅前となった。
 戦前までは挙母神社から桜町1丁目付近にまっすぐ道があって、本多家もその付近が表で、現在地付近は裏手だった。現在の南北の通りは多分戦中にできたと思う。豊信本店のあたりは田んぼだった。
 本多氏は昭和35年生まれということで、高度成長期の頃からの中心市街地をずっと見てきたことになる。確かに激変をしてきた、あのあたりで、本多氏が子供の頃から現在まで残っている建物は、ホンダ薬局の隣の床屋さんだけとのこと。あとは桜城址の石垣くらいだと振り返る。桜城址も以前は東邦ガスがあって、その裏にひっそりと石垣があったが、東邦ガスが移転して現在の公園が整備された。一番街商店街は、30~35年ほど前にほぼ現在の景色になり、コモスクエアの建設に合わせて歩道等も整備されのが10年ほど前になる。
 筆者も子供の頃(昭和40年代後半~50年代初め)買い物というと家族で駅前まで来ていた思い出がある。当時は駅ビルのトヨビル、長崎屋、ユニーなどがあり、現在の竹生町付近や桜町にはアーケードがかかっていたのを憶えている。本多氏によると、アーケードは自分が大学生の頃まであったと思うので、36、7年前くらいまであったのではないかとのこと。当時はものすごく賑わっていた。特に銀座通りは“賑わい”という言葉がふさわしかった。銀座通りとは、桜町と神明町の町境(現在のホテルアンティーズのあたり)から喜多町にかけての通りのこと。
 当時の賑わいのピークは昭和40年代頃だと思われるが、その後少し賑わいは収まっていく。本多氏の感覚では、ジャスコ豊田店(現在のイオンスタイル豊田店)ができて(昭和50年開業)、お客さんの流れが変わったのではないかと思うとのこと。時代背景を考えれば、高度成長期も終盤となり、車も各世帯1台目~2台目を持つようになった頃で、郊外型店舗の進出とともに、全国でいわゆる商店街の元気がなくなっていった時代と豊田の街も重なる。
 ただし、本多氏は、その時期それほど商店街が衰退をしたという実感はないとのこと。もともとは呉服屋が多いところで、和服の需要が少なくなり呉服屋がなくなっていったということはあるが、それ以外の業種はそれほど影響はなかったのではないか。江戸時代から続いていた本田呉服店は、本多氏の祖父の代に雑貨等の店になり、父の代から薬局店になっていたとのこと(昭和35年開業)。

本多氏経歴
 続いて本多氏の生い立ち、特に文化芸術との関わりについて聞いた。小さい頃はおばあちゃん子で、本多氏のおばあさんは当時豊田の婦人会会長も務められていたこともあり顔も広く、いろんな所に連れて行ってもらったとのこと。
 その後、小学校6年生の頃よりオーディオマニアになった。きっかけはチャップリンの映画「モダンタイムス」を観て、この映画音楽を家で聴きたいと思ったことで、そこからフォークやジャズにも興味を持ち、中学時代には、吉田拓郎のつま恋コンサートに行ったり、井上陽水のコンサートに行ったりしていた。ただそこから楽器をやる方には行かず、オーディオ機器やレコードが多くなりすぎて、これでは引っ越しはできないので地元の大学の薬学部に入学して(笑)、薬局を継ごうと思っていたとのこと。
 音楽以外では、藤山寛美が好きだったり、落語をよく見ていたが、もっぱら見るのはテレビだった。豊田には芝居や落語などをやっている小屋はもうなかったと思う。コロモ劇場もその頃はもう映画館だった。
 マセた子どもだったので、周りの年上の人が、コンサートに連れて行ってくれたり、声をかけて誘ってくれた。名古屋にもよくコンサート等行った。豊田ではそれほどライブ等はなかったと思う。今思えば何かと受け身で、年上の人に連れて行ってもらっていたので、チケット代もほとんど払ったことがないという(笑)。そういう子ども時代だった。
 大学卒業後は名古屋の薬局店に3年修行に行き、その後家業を継ぐ。
 商店街での活動の前にJC(青年会議所)に入って活動した。これも「どーせいつか入らなきゃいけないんだから」と誘われてしょうがなく入った。JCでは12年活動した。
 本多氏は、何かと受け身で、誰かに誘われて始めて、でも結局長く続けてしまうパターンがあるようで(笑)、なんでも受け入れる、先入観なく自然体でやってみる、という人柄がなせる部分も大きいのではと思う。
 JCの活動時期の最後の頃、一番街商店街の理事長になった。当時でも今でも30代での理事長は珍しいと思うとのこと。理事長になって20年になる、理事長だけは、受け身ではなく「ぜひやりたい」と言って引き受けた(笑)、とのこと。

豊田中心市街地の変遷Ⅱ(30年前~現在)
 一番街商店街という名称になって今年で30年となる。一番街商店街は、3つの自治区(一区、二区、三区)にまたがる商店街という特長がある。当時、30年前頃~理事長になった頃は、行政も絡んでとにかくイベントをやるという時代だった。豊田まつりから豊田おいでんまつりになったのも、ちょうど30年前になる。駅西の再開発(そごう、T-FACE)、長崎屋の撤退やユニー/アピタの撤退の流れの頃である。
 おいでんまつりが始まった頃は、悪夢だった(笑)と話す。とにかく地域や学校、企業も含めて全市的に盛り上げようということで、自分は張りぼての鉄骨を担いでて、踊り部会長なのに1回も踊ったことがなかった(笑)。おいでんまつりも基本は行政主導で、どんどん大きくなっていった印象。
 20年前に商店街の理事長になった頃は、とにかくイベントをやらなければというプレッシャーがあったと話す。しかし、イベントをやるとなると本業がどうしても疎かになるし、すべての個店が望むイベントは難しいというジレンマもあったとのこと。イベントをやらねばというプレッシャーから解放されたのは本当にここ数年とのこと。商店街としてやれることは基本的にはインフラ整備等の土台作りであり、集客はやはり個店それぞれが魅力を出していってもらうしかない、という思いに至ったとのこと。
 筆者はこの<TAG>通信映像版のゲストによく聞くのだが、ここ10~15年豊田中心市街地に飲食店、特に飲み屋さんがとても増えて継続している、その要因はなんだと思いますか?と本多氏にも聞いてみた。
 本多氏は主な要因は2つあると思うと答えてくれた。1つは、豊田の商店街だけの話ではなく、世界的な流れだが、お店でモノが売れなくなった、インターネットに替わってきたという流れの影響は大きいと思う。例えば、アパレル、衣料品をインターネットで買う時代が来ることは考えられなかった。服は着てみて買うものだったが、今や男性どころか女性までインターネットで服を買う時代になった。そういう、モノが売れなくなったことによる業態の変遷はあると思う。
 もう1つの理由は、そうは言っても、孤食の時代と言われても、やっぱりみんなで集って食事をしたい、モノはお店では買わないけど、ずっと個人ではさみしくて集いたいとみんな思っているのだと思う、とのこと。
 音楽業界で例えば、CDが売れない時代と言われて久しいが、それなら音楽自体が聞かれなくなったかというとそうではなく、昨今はライブやコンサート動員数は順調に伸びているという例もある。豊田の例で言えば、30年前、駅西にそごうやT-FACEができた時に、駅東は廃墟になると言われたこともあったが、そんなに極端に人の流れは変わらないと当時も思っていた。
 商店街は生き物なので、その時その時で時代に合わせた形になっていく。飲食店が増えて10~15年だが、その前には携帯ショップが立ち並んだ時期もあった。そういう意味では、そういう流れ時代に逆らってもしょうがないので、例えば今なら飲食店を出しやすいインフラ整備をしていく、ということが商店街等のするべきことなのかなと思う。
 ただし、すべてのお店が業態を変えていくべきかと言われればそうでもなくて、ずっと同じ業態を続けていくお店もあるべきで、うどん屋が流行っているからと言って急にラーメン屋になっても長続きしないと思うし、まさしく自分がやっている薬局などは続けていくべき業態なのだと思う。
 豊田中心市街地に昼間人口(働きに来る人)が増えたという事由ももちろんあるとは思うが、例えば飲食店のジャンル自体も一時の居酒屋乱立から最近はイタ飯屋が増えている。でもそれは、昼間人口の増加が直接そのことの理由の答えにはならない。流行り、大きな流れ、大きなうねりの中で商店街は変わっていくものなので、その流れに沿っていけるかが重要だと思う。
 そんな流れの中で、業態に関わらず商店街の個店でこれから大切になってくるのは“対話”だと思っている。量販店やインターネットでは得られない“対話”がこれからのキーになるのではないか。そう思ってホンダ薬局は「対話型薬局」を目指している。
「だから、全然商店街をあきらめてはないし、まだまだ商店街には可能性がある」と本多氏は話す。

本多氏と文化芸術の関わり
 本多氏はお芝居と15年前頃より関わってきた。最初は唐十郎の紅テントを招へいしたことで(計3回招へいした内の2回は本多氏が委員長を務めた)、1回目はアピタの跡地で、2回目3回目は挙母神社で行った。
 その挙母神社でのテント芝居の雰囲気がよくて、もう1回やりたいということで、とよた市民野外劇で知り合っていた石黒氏に相談し、9年前にわくわく事業の1つとして挙母神社でのテント芝居を行ったのが「翔べ!ジョニー」公演(石黒作演出)だった。「翔べ!ジョニー」は制作だけのつもりがいつの間にか出演してしまったが、、、(笑)。
 また、石黒と筆者がプロデュースをした、<TAG>の前身事業の<TUG>(2011年)にも関わっていただき、Star☆Tと共演もしてもらった。<TUG>はヴィッツ下の豊田市民ギャラリーの活用という目的もあったので、ぜひ周辺商店街とも絡みたいと思った時に相談させてもらったのが本多さんだったという経緯がある。
 今後も文化芸術人材がどんどん商店街に絡ませていただきたいと思っている中で、本多氏を窓口に色々ご相談していきたいと思っている。

豊田おいでんまつりについて
 最後は、本多氏が踊り部会長も務めるおいでんまつりの話題となった。本多氏は、おいでんまつりは合併をして大きくなってきた豊田市の豊田市民としてのアイデンティティを育むアイコンになるべきだと訴える。マイタウンおいでんも含めて、おいでんまつりが、もっと豊田市を知る、豊田市民であることを感じる機会になって欲しいと話す。
 豊田おいでんまつりは今年がちょうど50回目にあたる(豊田まつりで20回、おいでんまつりになって30回目)。筆者が50回の節目でそのまま継続していくのか、方向展開をするのか見守っていたがどうなりますか?と本多氏に聞くと、まさに議論の真っ最中でいろんな意見があるが、おいでん踊りは続けていくという意見が大勢ではないかと話してくれた。ただし、今のまま、そのまま継続していくのは時間の問題やその他限界もあり、変わっていく必要があると思うとのこと。今年は金曜日に前夜祭をやろうという話も出ており、色々試行錯誤していきたい。
 石黒氏は、おいでんまつりは踊る人のものなのか、見る人のものなのか、と聞く。名古屋や札幌のまつりは、まずは踊る人のものであり、踊りの質を高めていくことで、それを見に行く人が増えるという相乗効果があると思うが、おいでんまつりはどうなっていくのか。
 本多氏は、現状ではおいでん踊りの競技という面をいきなりなくすことはできないので、踊る人が中心であることは続くと思うが、踊る人と見る人の垣根をどうやって下げていくかという課題は今後あると思う。
 筆者も、膨大な踊り連が参加していたあの頃をもう一度ではなく、様々な場面、場所で様々な楽しみ方がある、多様性がある中でそれぞれで参加できる、新しいおいでんまつりを作っていくべきだと思う。本多氏は今年やる予定の前夜祭がそんな何でもありな実験的なイベントになるのではないかと話す。
 本多氏は、おいでんまつりは、合併で大きくなってきた豊田市の唯一の「この指とまれ」だと思っていると話す。なので、門戸を狭めることはしたくないし、だれでも気軽に参加できるおまつりを目指していきたいと話す。
 おいでんまつりも含め、文化芸術人材も商店街のみなさんと様々な形でかかわっていけたらと思っているので、また色々と相談させてください、というところで今回は終わった。

本多さんから告知です。
豊田市スタジアムでのグランパス戦開催時には、喜多町3丁目交差点付近で焼きそばを売ってます。缶バッジも作って焼きそばにつけているので寄ってください。
5月27日には中心市街地周辺でふれ愛フェスタ2018が開催され、一番街商店街にて段ボール迷路をやってますのでこちらもお越しください。
そしていよいよ7月27・28・29日は豊田おいでんまつりです。ぜひ楽しんでください。

ゲストプロフィール
本多勝幸(ほんだかつゆき)
薬剤師、薬局店店主、一番街商店街理事長。1960年生まれ。豊田に生まれ、小さいころから音楽・オーディオ機器にのめり込む。大学卒業後修行時代を経てホンダ薬局を父より継ぐ。JC(青年会議所)活動の後、一番街商店街理事長に就任、他にも豊田おいでんまつり踊り部会長など。また、唐十郎氏が主宰する「紅テント」の招へいや、挙母神社でのテント芝居「翔べ!ジョニー」(2009年 石黒秀和作演出)の主催・出演、「サードlab.」出演(2011年)など演劇等文化芸術人材との交流も深い。  

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2018年05月17日

【コラム】とよた演劇協会 1年、これから(石黒秀和)

とよた演劇協会を設立して1年余りが過ぎた。協会の説明は設立と同時に立ち上げたとよた演劇協会のホームページ(https://toyota-engeki.jimdo.com)をご覧いただくとして、会費もとらない、誰でもいつでも入退会できるゆるい協会としては、煩わしい義務もない分、特に会員になることでのメリットなどもなく、それでも30名を超す方々がこの1年で登録してくれた。協会には一応数名の役員がいる。その役員を中心に、ホームページの運営や事業の企画などを行っている。昨年度は、劇カフェと称した演劇人の交流会やとよた演劇祭、野外群読劇、感動の玉手箱劇場などを、協会の主催、共催、主管事業として実施した。協会の事業としては先ずは交流会や勉強会を中心に運営していこうと思っていたのだが、感動の玉手箱劇場の運営におおよそ後半半年余りを費やしてしまったこともあり、正直肝心の交流会や勉強会がおざなりになってしまった感は歪めない。ホームページの運営も、役員が輪番でメンテナンスしているのだが、こちらも正直うまく回っていないのが現状であり、またそのあたりに役員の少なからぬ負担も生じている気がして、今後の課題だと認識している。ゆるくとも持続可能な組織運営と発展・・・そこへの挑戦がまだしばらくは続きそうである。いずれにせよ、この協会は、ちょっと演劇について悩んだり、誰かと話をしたくなった時、人と人をつなぐものでありたいと思っているので・・・とりあえず、近々「劇呑み」と称した飲み会を開催したいと思っています。会員の皆様もそうでない方もぜひご参加ください。

石黒秀和
富良野塾出身。作・演出家。
とよた市民アートプロジェクト推進協議会委員長。
とよた演劇協会会長。  

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2018年05月02日

【コラム】<TAG>通信第19回「ストーリーにおけるテーマとは(略)(ゲストどうまえなおこ氏)」要約と所感 清水雅人

1時間超の映像を見る時間を割くのが難しい方のために、<TAG>通信[映像版]の要約をお送りするシリーズ、今回は劇作家、演出家のどうまえなおこ氏に話を聞いた。
※すべてを要約できてはないので、よろしければどうぞ映像版をご覧ください。
<TAG>通信[映像版] → https://youtu.be/JzlsYSjigcA

どうまえなおこ氏経歴
 今回のゲストは豊田を中心に活動する劇作家、演出家のどうまえなおこ氏をお招きした。これまでのゲストと同じく経歴や活動歴もお聞きしたいが、どうまえさんは、ホストの2人とは昨年秋以降深い関わりがあったので(石黒氏とは豊田市民の誓い40周年記念感動の玉手箱劇場事業の作演出チームとして、清水とは豊田ご当地アイドルStar☆Tアルバム「メロウ」収録短編小説執筆、作詞として)、そのことも話したい。
 どうまえ氏は2010年とよた演劇アカデミーの3期生に参加。それ以前には、映画や本を読むのは好きだったが、特に演劇などに関わることはなかった。学生時代演劇部でもなかった。その頃ちょうど人生のひきこもり期で(笑)、「これはいかん、外に出なければ」と思っていた時に広報とよたで演劇アカデミー生募集記事を見て、受講料も1年間で1万円と安いし(笑)、ちょっとやってみようかと思って参加したとのこと。「それでアカデミーに入ってみたら、ハマっちゃったんですよね~(笑)」と語る。演劇アカデミーの修了公演の脚本をアカデミー生みんなで書いたのだが、最終的に3幕を書く3人の内の1人に採用されてうれしかったし楽しかったとのこと。石黒氏もその時からよく書けてた印象がある、台本としてもきちんとしてて経験者だとばかり思っていたとのこと。

 演劇アカデミーは1年で修了だが、その後、長久手文化の家の戯曲講座に採用されて参加したりとか、ちょうどT-1(とよた演劇バトル 複数劇団・グループが短編演劇を公演し、観客投票でグランプリを決めるイベント)が始まって、劇団SUN(演劇アカデミー3期生を母体とした劇団)として参加したり、美術館のミュージアムフェスタ内での「小さな演劇」を手掛けたり(4作品ほど)、とよた演劇祭参加作品など、短編が主だが作演出を行ってきた。
 石黒氏は、どうまえのホンはいい意味でわかりにくいというか、すべてをセリフにしないので、より演劇的なホンが書ける人だと思う、自分はつい全部書き込んでしまうテレビドラマの人なので(笑)と語る。だから演出も合わせてやると、より良さが発揮できるタイプだと思うとのこと。ただ短編が中心で長編をやってないので、ぜひそろそろ長編にも挑戦してほしいとも語った。

豊田市民の誓い40周年記念事業 感動の玉手箱劇場「虹かかる街」について
 当事業のいきさつを石黒氏に聞く。市より、感動の玉手箱(市民から募集した本当にあったちょっといい話集)を題材に演劇公演をやってもらえないかというオファーがあったのがはじまり。最初は朗読劇でもと考えていたが、ちょうどとよた演劇協会も立ち上がったところで、ホンが書ける人材も揃っていたので、どうまえ氏を含む演劇アカデミー修了生からの7人で分担して台本を書き、演出もすることにしたとのこと。
 当初は感動の玉手箱の中の題材からと考えていたが、現実問題として、脚色するにも当事者の許可がいる、再取材が必要などのハードルがあったため、一旦白紙に戻し、7人で豊田の魅力とは?から話し合って、ワークショップ形式で小箱(※ストーリー上の構成)まで一緒に作っていった。
 筆者の観劇の感想は、石黒氏が実際に書いているパートは少なく、全体を調整するプロデュースをされたと思うが、逆に石黒らしさが出てるな、と感じた。例えば石黒氏が1人で脚本を書く場合よりも、プロデュースがゆえにより石黒らしさが出たのではないかと。それはプロデュースだからこそ、テーマやコンセプト、フォーマットを7人に提示調整する中で、より色がわかりやすくなったのではないかと思う。
 石黒氏は、演劇アカデミーの修了公演も、アカデミー生が書いたものを監修する形でやっていて、今回も流れは同じだったかなと、そういう意味では、とよた演劇アカデミーの集大成的な感覚もあったと語る。それに、今回は、“いい話を”というクライアントからのオファーもあり、7人にもコンセプトとして、“いい話で”というのは言っていたので、まとまりやすかったし、それほどもめることもなかったとのこと。
 小箱の段階で18シーンになったため、そこから1人3シーン程度ずつ台本を書き、演出も自分の書いたパートを中心としつつ、7人で演出する形だったとのこと。どうまえ氏は、中でも中心的な食卓のシーンを分担した。全体のコンセプトとして、「寺内貫太郎一家」(テレビドラマ)的な、昭和の家族的な雰囲気を出したい、家族の食事のシーンを中心に据えたいと思い、そこをどうまえ氏が担当したとのこと。
 どうまえ氏は、今ちょうど、何を書いたらいいのか、どう書いたらいいのか、という壁にぶちあたっていると言うが、このホンは、7人で一緒に作っていく中で、みんなからいろいろアイディアももらったため、すんなりとあまり壁を感じずに書けたと語る。向田邦子さん(寺内貫太郎一家脚本)の脚本を図書館で読んだり、映像も見たりして参考にしたとのこと。

 9月頃からストーリー作り、脚本作りをはじめ、11月までにおおよその完成形が出来上がった。出演者は市民公募で行った。12月のオーディション時に20名程度が集まり、その後演劇アカデミー修了生や経験者、たまたま稽古を見に来てた人を引っ張り込んでなどで、40名ほどになった。稽古は12月中は本読み等、1月から週2日のペースで行った。当初の予定より公演時間が伸びたこともあり、稽古時間はとても少なかったが、なんとか上演に耐えうるものができたかなと思うとのこと。
 どうまえ氏も、本番がとってもよかったので、ホッとしていると語る。見た人もよかったと言ってくれて、満足されているようなのでそういう意味でもよかったと思う。
 石黒氏は、今回は市民劇の良さが出たと思っていると語る。市民みんなで、子供からお年寄りまで幅広い年齢層が演劇に参加する感じや、観客が「知っている人が出てる!」となる感じも含めて、市民劇もいいなと。とよた市民劇や野外劇をやって、もう市民劇はいいな、と思っていたが、今回の事業を通して、市民劇という形もアリだなと再認識したとのこと。
 筆者も、観劇して同じことを感じた。市民が演劇に参加する機会として、こういう事業が、毎年は難しいかもしれないが数年ごとでもいいので定期的にあってもいいかなと思う。90年代に行われた市民劇は、豊田の演劇がほぼそれしかない状態だったのでクオリティも求められてしまったが、現在は、演劇アカデミー修了生の劇団はじめ様々な演劇環境もあるため、入口としてあってもいいなと思った。客席も満席で、出演者の家族や関係者も多かったと思うが、そういう市民劇的な雰囲気も1つの形としてよかったし、継続してあるといいなと思う。

Star☆Tアルバム「メロウ」について
 続いて、Star☆Tアルバム「メロウ」についてに移った。アルバム「メロウ」はコンセプトアルバムと銘打ち、収録の全14曲で1つのストーリーになっている。歌詞等でストーリーが繋がっていくのだが、軸となる短編小説を作り、CDのブックレットに収録するということで、その小説執筆を筆者よりどうまえ氏に依頼したという経緯。
 筆者とどうまえ氏との最初の打ち合わせの中で、アイドルがどうしてもテーマにならざるを得ないかな、とか童話的な内容はどうか等の話も出て、どうまえ氏はアイドル本を読んで勉強したりして(どうまえ氏が結構勉強する作家であることが判明した)、人魚姫をモチーフにする案はどうまえ氏から提案された。どうまえ氏が以前に作詞した「ハイブリッドガールⅡ」の世界観を継承したセカイ系ストーリーのアイディアもあったが、今回は継続性ではなく独立した形がいいとの判断で人魚姫モチーフが採用された。
 どうまえ氏は、当初長さの制約はないと聞いていたが、最終的に10ページほど削る必要が出てきて大変だったと語る。確かに当初は長さの制約をしてなかったが、上がってきた原稿が想定以上に長かったので、物理的な収録ブックレットのページ数の上限から、削ってもらったので申し訳なかった(清水)。
 石黒氏は、冒頭童話的な書き出しだったが、途中から小説的な文体に変化したりして、好みとしては最後まで童話的な文体の方がよかったのではと語る。
 どうまえ氏は、当初より、童話的な文体や小説的な文体、モノローグなどいろんな要素を詰め込みたいという意図があったとのこと。ただ、確かに文体をかき分けるには字数が少なかったのではとの意見も出た。散文執筆は初めてだったというどうまえ氏だが、書き進めて方については、途中にこういうシーンを入れる、ラストはこういう感じでという大まかな構想は持ちつつ、まずは書き進めて行ったとのこと。石黒氏は、短編ではなく、長編的な書き進め方をしたように見えると話した。
今回、石黒氏にも1曲作詞を担当してもらっている。主人公の人魚姫が人間になるためにはどうしたらいいかを聞きに魔女に会いに行くシーンをモチーフに作詞してもらっているが、魔女は、人魚姫を応援しているのか、諫めているのか、どちらの解釈か迷ったと語る。魔女は、以前人間と恋に落ちた過去があり、そのことで痛い目にあっている、しかし、それでも人魚姫を応援しているという解釈で作詞を進めたとのこと。
 筆者は、初稿を読んだ時に、「ピノキオ」やスピルバーグ監督の「AI」という映画を思い浮かべた。愛を持ってない人魚が愛を持っている人間界に行くが、もはや人間は愛を忘れつつある。その中では純粋に1人の男性にもう一度だけ会いたいと願い行動する人魚姫がもっとも愛を持っているように見え、それに触れた人間たちが逆に愛を取り戻していく、という普遍性のあるこれまでにも様々なところで繰り返されてきたテーマを感じたので、どうまえ氏と共有しながら2稿3稿と書き進めてもらった。
 石黒氏は、例えば魔女が以前恋をした人間が出てきて、、、というような展開もあったのではと指摘する。どうまえ氏は、途中片目のない男が出てくるが、あの男が人間の「悪」の部分をもっと体現していく構想もあった。だが、字数の関係で現在の形に落ち着いてしまった経緯もあると打ち明けた。
 筆者もプロデュ―サ―としての葛藤はあった。初稿を読んでとても面白いと感じ、この線で行きましょうとなったが、先ほど言った愛のテーマをもっとわかりやすく際立たせていくのか、例えば人魚姫がやってきた人間界はもう愛がない、愛の悪い面が出ているとするなら、人魚姫を助けるオタクや、プロダクションのマネージャーはもっと悪い人というキャラクターにするべきか、ただ、オタクの心情やアイドル業界の在り方がとてもリアルでフラットに書かれているので、リアルなアイドル業界の紹介という意味では今のままの方がいいのか、等々迷った。どうまえ氏は、そういう人間のダークサイドを片目のない男が表すという構想だったんだと思うが、最終的には字数や時間の関係で今の形で行きましょうと判断させてもらった。
 そもそもどうまえ氏は、舞台シナリオについても、台本を書く段階からゴリゴリにテーマを設定して書くタイプではなく、演出をしながら、徐々にテーマが後から見えてくるタイプなのではないかと筆者は思う。
石黒氏は、どうまえ氏はもちろん書いている段階からテーマはあるのだろうが、無意識で書いていて、それが後から見えてくるのではないか、でもそういう才能がどうまえ氏にはあると感じると語る。
 筆者は、テーマを固めてからストーリーを作っていくと、ストーリーの幅を狭めてしまう可能性があり本当はよくないのだが、映画作りで若い監督のシナリオを読んだ時に、テーマがわかりにくいので、もっとわかりやすくテーマを出したらどうかというアドバイスをいつもしてきた。あまりにもテーマが読み取れないのも作品としてのバランスを欠くのではと思う。
 特に今回は、メインのターゲットは普段それほど小説等に親しんでない層を想定していたし、まず最初の読者はStar☆Tのメンバーなので、いわゆる女子中高生の「泣けた!」というリアクションが欲しいですね、という話はどうまえ氏ともしていたが、そういうわかりやすさは出し切れてないかもしれない。理解力、読解力のレベルが落ちてきている、と言われている現在の中で、どのように創作していくかも考える必要性も感じた。
 ただ、今回は、コンセプトアルバムというフォーマットで、楽曲と連動した小説でもあるので、楽曲の歌詞によりテーマを分担させるという判断もあったことも添えておく。
楽曲と小説が絡む大きなプロジェクトとして完成した「メロウ」をいつか舞台化したいですね、という話が出たところで今回の対談は終わった。

最後に
 今回は、ゲストのどうまえ氏が関わった舞台作品と小説について中心に話が進んだが、感動の玉手箱劇場については、市民劇、脚本演出をチームで行うというフォーマット、みんなで作り上げていく過程ゆえに、よりわかりやすくテーマが見えたという印象と、小説という究極の個人的な創作の中でテーマをどう表現していくかのバランスの難しさが浮かび上がったと思う。演劇や音楽、映像やアートなどの創作の中で、テーマをどう扱うかということ自体がとても普遍的なテーマだと思うので、これからも折に触れ色んな人に話を聞きたいと思った今回だった。

 どうまえ氏は、現在具体的に告知できる次回作はないが、いくつか話はあるので、いずれお知らせできると思うとのこと。
 発起人2人が才能を認めるどうまえ氏の今後の活動にも注目されたい。

ゲストプロフィール
どうまえなおこ
劇作家、演出家。2010年とよた演劇アカデミー3期生に参加。修了後、とよた演劇バトルT-1、豊田市美術館ミュージアムフェスタ小さな演劇、とよた演劇祭など多数の劇作、演出を手掛ける。また、豊田ご当地アイドルStar☆Tの楽曲作詞歴あり。昨年秋からは、石黒がプロデュースした豊田市民の誓い40周年記念感動の玉手箱劇場の作演出チームに参加、また、清水がプロデュースしたStar☆Tアルバム「メロウ」収録の短編小説及び作詞に参加した。
  

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2016年11月24日

【コラム】劇団スカブラボー第5回本公演「天使に願いを」観劇レポート 清水雅人

 11月16・17日に豊田産業文化センター小ホールで開催された劇団スカブラボー第5回本公演「天使に願いを」を観劇してきた。
 以下まずは劇団スカブラボーを紹介する。
 劇団スカブラボーは東京を中心に活動する劇団だが、昨年まで開催されていた、とよた短編演劇バトル「T-1」にて、前身団体「空想科学少年ダッチ☆だんぺい」から数えて2年連続で優勝、昨年にも第3回公演を豊田で行っているとのこと。団員のどなたかが豊田市出身ということで(間違っていたらすみません)、結成以来豊田と縁が深い劇団だ。
 東京の下北沢界隈にて公演もしているとのことで、東京で活動する小劇団の舞台が豊田で観られるのは、実は珍しいことでもある。
 また、地元の劇団の公演は土日曜日公演が多い中(団員が仕事を持ちながらということもあると思うが)、今回の公演は平日夜公演という挑戦をされており、そのあたりも注目する点だった。
 筆者はT-1での舞台及び昨年の公演も見逃しており、この劇団の観劇ははじめてであった。

 まずは、公演全体についての所感から。
 筆者は2日目の11月17日(木)に行ったが、集客は苦戦しており、さびしい感じは否めなかった。笑いが起こるべきところでも、会場の密度が薄いゆえ起こらない雰囲気が終始した。これが、もう少し小さい箱で、お客さんも密集していたら、笑いや他のリアクションももっと起こっていたと想像するので、改めて場の重要さを感じ、今回はちょっともったいない気がした。
 セットもシンプルで、登場人物もそれほど多くなかったので、よりお客さんが密集する空間の方が、演者の熱気も伝わり、芝居自体の印象ももっと違ったのではないかと思う。ただ、豊田においては、芝居が常に上演できる小さい箱というのはないので、自らで作るしかないのだが。

 内容においても、会場の広さゆえか、本公演という構えゆえか、少しゆったりとした印象があった。兄天使が出てきてから少しずつ芝居がノッてきたのだが、逆にそれまでが長く感じた。全体としても、もっとテンポよく、全体尺も短くてよかったと思う。
 小さな漁村、気弱な主人公のもとに天使が現れ、人間と天使の恋、兄妹天使の母の秘密など複数の軸が交差しながらストーリーが進んでいくファンタジックな内容だが、構えが大きいためか、ストーリーの建てつけの雑さが見えてしまった感じがした。もう少し小さい空間で、テンポもよければ、多少雑くらいな方が勢いが出て気にならなかったと思うし、構えを大きくするなら、もう少し周到なストーリー構築、展開が欲しかったと思う。

 ただ、演者1人1人のスキルは高く、それぞれのキャラクターも演じ分けられていてすんなりと入ってきた。演技力、演出力の高さゆえだと思う。
 この公演が実力のすべてではないと思うので、これからも、豊田でも継続して公演しもらって、劇団の成長を見ていきたいと思う。

清水雅人
映像作家・プロデューサー。<TAG>発起人。映画製作団体M.I.F.元代表。映画製作の他にも、小坂本町一丁目映画祭運営、豊田ご当地アイドルStar☆Tプロデュ―スなどを手掛ける   

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2016年11月23日

【コラム】<TAG>通信[映像版]第5回「まちづくりとデザイン、地方都市と情報発信/ゲスト西村新氏」要約と所感 清水雅人

1時間超の映像を見る時間を割くのが難しい方のために、<TAG>通信[映像版]の要約をお送りするシリーズの第5弾、今回はデザイン、情報発信などをテーマに西村新氏に話を聞いた。
※すべてを要約できてはないので、よろしければどうぞ映像版をご覧ください。
<TAG>通信[映像版] → https://youtu.be/Z-Anu0P0yqQ

西村新氏経歴
 <TAG>通信[映像版]も今回で5回目となった。これまでの4回は、<TAG>が主に取り扱う、豊田の演劇、映像、音楽、アートを俯瞰的に話す試みをメインに据えたので、総論的な話も多かったが、今回からは、よりゲストの人となりをお聞きする、豊田で活躍している人、興味のある人にお話を聞くことに、より重点を置いていきたいと考えている。
 その最初は、デザイナーでこいけやクリエイト代表の西村新さんに来ていただいた。
 西村氏は、豊田市出身で、市内の高校卒業、県内の芸術大学を経て、デザインに関する仕事や関係ない仕事をしつつ、8~9年前よりネットフレンズ(「chaoo」などを発行する地元の広告代理店)にデザイナーとして勤務、2011年に独立し、こいけやクリエイトを設立された。
 独立には、東日本大震災もきっかけになったとのことで、2011年3月11日は仕事をしていたが、こういう時に、やはり家族のそばにいたい、それに仕事が遅くまでかかることも多いが、なるべく家族といる時間を多くしたいということで、自宅兼事務所にしたと語る。
 また、デザインを仕事としてやっていこうとした時に、東京や名古屋などに場を求めなかったのか聞くと、不思議とそういう気持ちは当時からなく、昔から地元が好きで、地元にいたいという気持ちが強かったとのこと。

 西村氏が学業を終えてデザインの仕事を地元でしていくのは、90年代中終盤頃だが、この頃より、フリーペーパーの出現や、インターネットの普及があり、地方ではそれまで新聞、広告、チラシくらいだった情報媒体がぐっと拡がり、デザインの需要が徐々に高まっていく頃だったと推測される。
 もう少し目を拡げれば、ケーブルテレビ局やコミュニティラジオなどの放送媒体も90年代より地域メディアとして出現してきており、媒体の種類は、全国を相手にする大手メディアと基本的には変わらなくなってきた時期でもある。
 改めて言えば、90年代から2000年代前半にかけて、情報発信のツールは、紙(新聞、雑誌、広告など)、放送、インターネットと、地方では、まずは環境として整ったという側面があると思われる。
 西村氏も、独立する時には、デザイナーでもある奥さんとともに、グラフィックデザインとWEBデザインでやっていけるかなと踏んでの独立だったとのことだった。

まちづくりとデザイン~本当の豊かさとは?~
 西村氏の手掛けるデザインや事業の特色として、農と食、自然など、統一的なテーマを感じる。それは独立時からのテーマだったのか聞くと、特に最初から狙っていたわけではないとのこと。独立のきっかけが、家族と一緒の時間を持ちたいということにも表れているが、「本当の豊かさとは何か?」という思いがあり、自分としては、ビジネスとしてより大きなお金を稼ぐということよりも、生活できる範囲で仕事をして、家族との時間を大切にしたいという生き方が、デザインや事業展開にも反映されているのではと語る。ただ、それらは最初に厳密に計画したわけではなく、今思えばそう思うとのことだった。

 西村氏は自然体で進んで来ただけだと語るが、このスタイルは、中山間地を持つ豊田が進むべき1つの方向性にとてもフィットしてきたと考えられるし、また、「本当の豊かさとは何か?」という問いは、普遍性を持った、時代の流れに寄り添ったものであると思う。
 従来デザインと言えば、ファッション、建築、出版物などのイメージだが、現在においては、まちづくりもデザインするという言い方がしっくりくるようになってきており、西村氏の活動には、デザインが進む先を感じさせるものがあるのではないか。

 西村氏は、デザインとは「よりよくするもの」だと語る。例えばチラシを作る場合、チラシを作ること自体が目的なのではなく、本来の目的を達成するためのツールとしてチラシがあるわけで、もっと言えば今では昔のようにチラシなどの紙媒体だけが情報発信のツールということはなく、インターネットやSNSなど様々なツールもあるので、目的を達成するためにそれらをどのように組み合わせていくかをコーディネートすることがデザインになってきていると語る。
 現在のデザインとは、地域の問題を発見し、抽出し、提示し、解決の方向を示すもの、という話も聞くが、西村氏が情報発信の最初のツールとして発刊し、4年が経つフリーペーパー「耕Life」などからでも感じられる、「豊かさとは何か?」「より豊かなくらしとは?」というテーマ設定と楽しさを追及する試みは、まさに現在のデザインのありかた、まちづくりとデザインを体現していると思う。
 豊田市として考えれば、中山間地域に関わる諸問題をどう解決していくかというのは大きなテーマであり、おいでんさんそんセンターはじめ様々な取り組みがなされているが、豊田のいなかを見える化する、魅力を伝えるということにおいて西村氏が担っている功績は大きいと考える。

地方都市と情報発信
 情報発信のコーディネートもデザインの内だと考えると西村氏は語った。地方都市における情報発信をどのようにするかというのは、実は<TAG>を立ち上げた目的の1つでもある。
 私たちは日ごろ多くの情報を主にテレビや新聞・雑誌などのマスコミ、それとインターネットから得ているが、そこには地域の情報はほとんどないに等しい。「これって実はおかしんじゃないか」と疑うことから始めるというのが<TAG>でもある。
 先ほど言ったように、紙や放送、インターネットなど地方都市にいても、情報発信のツールは揃っていて、受け取ることもできるわけだが、有機的に機能しているかと言えば、半分はイエスで半分はノーとなる。

 西村氏は、昨年より、とよたまちさとミライ塾の運営、情報発信も手掛けている。この事業は、市内のワークショップや講座を集約して情報発信する試みであり、注目度も高く、利用者も増えてきている。
 3年前の事業の初年度は、いち講座開催者としての参加だったが、2年目となる昨年度から豊田市観光協会より運営等請け負うことになった。
 ここでは、情報の集約やサイト・パンフレット等による発信だけでなく、それぞれのパートナー(講座開催者)に情報発信の仕方などをレクチャーする、横のつながりを促すために交流会をするなどの支援も行っている。そこには、まちさとミライ塾の全体のデザインの中で、必然的にやるべきことを必然的に手掛けていく、盛り上げていくという的確さ、筋道の正しさを感じる。

 また、西村氏は今年からとよたプロモ部という事業も立ち上げられた。これは、部員を募り、プロモーション(情報発信)に必要な各分野の専門家(写真、映像、文章など)を呼んで学び、スキルを上げていくという事業で、現在30人ほどの部員がいる。情報発信の重要性を感じ、耕Lifeやまちさとミライ塾を経て、プロモ部立ち上げに至ったとのこと。今年はプロモ部のメンバーに市民レポーターとしてまちさとミライ塾の講座の取材をしてもらったりもしているとのことだった。

 他に、西村氏は、とよたあそべるとよたプロジェクトのプロモーション、ロゴ作りやサイト作りにも携わっている。ここでは、全国のまちづくりに関係する様々な人たちと交流できたり、豊田を外から見る視点を得られることも大きいと語る。

最後に~情報発信に必要なもの~
 最後に、地方都市での情報発信を機能させるためには何が必要か聞いた。
 例えば耕Lifeは、現在1万5千部を配布している。ただ部数を出すということではなく、より質の高い読者、ちゃんと読んでくれる読者を少しずつ地道に増やしてこれたと思っている。
 また、インターネットでは、例えばあそべるとよたプロジェクトは、フェイスブックページのいいね!が1,300ほどあり、投稿によってはシェアされて1万くらい閲覧されている。
 SNSとひと括りで言っても、フェイスブックやツイッターなど種類によってもターゲットは違ってくるが、紙媒体でも、インタ―ネットでも、情報の届く先が1万を超えてくると、例えば企画募集にそれなりのリアクションが返ってくるなど、浸透している実感が出てくるとのこと。また、紙媒体ととインターネットの情報発信力を比べると、どちらが大きいということでもなく、同じくらいではないかとのことだった。コアな1,000(いいね!フォロワー)と情報が届いている10,000というのは、豊田市での情報発信の1つの目安なのかもしれない。

 そして、情報発信で必要なことは、コンテンツの質と継続性、さらに言えば、いろんな人を巻き込んでいくこと、繋がっていくこと、応援してくれる仲間を増やしていくことではないかと西村氏は語る。これは、「顔が見える」という地域コミュニティとしてのメリットを活かすというもっとも必然的な答えだと思う。

 筆者が若い頃、80年代に情報にこそ価値があるという言説が言われ始めた。それは今や自明のこととなり、情報のグローバル化は進み続けている。しかし、そんな中で、地域コミュニティでの情報発信のあり方を考えることは、もう一方でもっとも今日的なテーマにしなければならないと思う。地域社会をどう再生していくかという問題の中で、情報についての議論はまだこれからだと思うし、今回の1つのテーマだった「本当の豊かさ」の中には、情報の量ではなく質を考えることの必要性があると思う。

 西村氏にこれからの取り組みを聞くと、今年立ち上げたとよたプロモ部をさらに充実させていきたい、情報発信のプラットフォーム、ここにいけば情報が集約されているという場所(まずはネット上と考えている)を作っていきたいとのことだった。
 <TAG>とも重なる部分も大きく、今回の話は大変勉強になった。そして、引き続き連携も取っていかせらもうことを約束した。

ゲスト:西村新(にしむらしん) 
デザイナー、こいけやクリエイト代表取締役。豊田市出身・在住。印刷会社や広告代理店等でのデザインの仕事を経て、2011年独立、こいけやクリエイトを設立。以後、フリーペーパー「耕Life」発行、とよたまちさとミライ塾運営、とよたあそべるプロジェクトプロモーション、とよたプロモ部主宰など、デザインに限らないまちづくりに繋がる活動を続けている。
こいけやクリエイトサイトhttp://koikeya-create.com/
耕Lifeサイト http://www.kou-life.com/
とよたまちさとミライ塾サイト http://www.toyota-miraijuku.com/
とよたあそべるプロジェクトサイト http://asoberutoyota.com/
とよたプロモ部フェイスブックページ https://www.facebook.com/toyotapromobu/

  

Posted by <TAG>事務局 at 12:13Comments(0)コラム<TAG>通信映像版

2016年11月15日

【コラム】<TAG>通信映像版第4回「アートと地域、私たちとの距離/ゲスト亀田恵子氏」要約と所感 清水雅人

1時間超の映像を見る時間を割くのが難しい方のために、<TAG>通信[映像版]の要約をお送りするシリーズの第4弾、今回は豊田のアートをテーマに亀田恵子氏に話を聞いた。
※映像アップより時間が経ってからの公開になってしまいましたが、どうぞ参考にしてください。すべてを要約できてはないので、よろしければどうぞ映像版をご覧ください。
<TAG>通信[映像版] → https://youtu.be/cCsosDOeHlI

肩書について
 冒頭、亀田氏の肩書の話になった。便宜上評論家と名乗っているが、少しおこがましい気持ちもしているとのこと。評論というと、歴史も含め作品を系統立てて解説するというイメージがあるが、自分は美術を専門的に学んできたわけでもないし、特に現在のアートは様々な表現があり、解説、解釈するということ自体に違和感がある。スタンスとしては、自分もいち鑑賞者、いち生活者として、感じたこと、作品や公演を目にした感情を言葉にすることで、言葉にすることが苦手な方に訴えられないかという思いで活動しているとのことだった。
 また、公演などのプロデュースも行っているが、評論とはちょっと関わっていくマインドが違っているように思っていて、パフォーマーの人は繊細な人が多いので、よりその人のよさをどのように引き出して、観客と繋げていくかという作業だと思っているとのこと。

アートとは?とよたデカス・プロジェクトでの活動を通して
 とよたデカスプロジェクトは、豊田市教育委員会(文化振興課)が主管する、市民提案のアートプロジェクトに補助金ではなく、賞金を出す事業で、今年(平成28年度)が3年目となる。亀田氏は、そこでモデル事業として「小渡・アートミルフィーユ」に昨年から携わっている。
 とよたデカスプロジェクトの特長は、それぞれの提案者がアートディレクション・プロダクション自体で生活費収入を得るのではなく、基本的には事業費はトントンになるくらいの予算組みで、正職を持ちながら、生活者として地域と連携しながら行う事業であるとのこと。

 筆者より上の世代は、アートというと美術館などに見に行くものという先入観があるが、90年代以降、アートプロジェクトと呼ばれる、展示施設を出て土地や場所とアートを融合させたり、制作過程自体を見せいていく、ワークショップ等の開催などの、自由度の高い活動が展開されてきている。これは、地域振興、まちづくりとも関連して、全国で増加してきていると思われる。トリエンナーレやビエンナーレという事業も認知度を得てきている。
 亀田氏は、確かに地域住民の人たちに「アートってなにか説明してほしい」とよく言われるが、アートとはこういうものだという正解があるわけではなく、それぞれの人が、子どもでも高齢者でも関係なく、自由にそれぞれ違ったメッセージを受け取ればいいものだと考えていると言う。日常の社会や関係性、いわば縦軸の関係性をとっぱらって、みんなを横並びにする機能がアートにはあると考える。そういった機能は、そのまま市民活動にあてはめることができ、様々に普及していっているのではないかと考察する。
 また、アートは日常を反転させる機能も持つと亀田氏は言う。小渡・アートミルフィーユで、朝顔を見てもらおうとなった時に「でもお客さんが来る時間には朝顔はもう咲いてないからどうしよう」とみんなで悩んだ。だが、発想を転換して、それならお客さんに朝来てもらって、小渡の朝を楽しんでもらったらどうかと提案したことがあったとのこと。このような反転、欠点と思われることを長所にしてしまう機能がアートにはある。

 そもそも、各地域にはつい数十年前前まで、神事などとも相まった農村舞台や芸能などが盛んにあって、それこそ非日常を作り出すお祭りそのものがアートだったとも言える。高度成長期のなかで、そのような土着的なお祭りがなくなっていき、非日常な時間/空間がなくなってしまった先でアートが非日常性を復活させているとも言えるのではないか。

 亀田氏が、小渡でデカスプロジェクトのモデル事業をやろうとした時に、パフォーマーや現地の人とともに地区を歩いて回った。その時に、古い廃車が草むらの中にあったり、その横を子供たちが歩いていたりと時間の多層性を感じた。また、集落に中に川があり、昼間は気づかなかったのに夜だと川のせせらぎが大きく聞こえるなど1日の中でも違う自然を感じ、これはまさにミルフィーユのようだというところから事業に名付けたという経緯があったと語る。

 小渡・アートミルフィーユでは、様々なことをしている。早朝にヨガをやったり、風景の中に人がいるだけでまた違う風景が立ち上がってくることから、まちのいろんな場所にパフォーマーがいて、みんなに回遊してもらうなども行った。1つ1つはバラバラのイベントに見えるかもしれないが、そこには背骨となる全体のコンセプト、ストーリーがあり、それを共有することはとても大切だとも語る。

 小渡の地域の人たちの中に入っていった時に、こちらからこんなことをやりたいと言うのではなく、いちから一緒に何をやろうかと考えることに重点を置いた。それも最初だけでなく、途中で何回も、これはどのような経緯でやっているのかなどのコンセプト共有を図っていったと言う。

 アートという視点で見ると、旧合併町村、旭や足助、小原などとても元気で、人材も豊富だと感じる。やっとその元気が旧豊田地区にも波及してきていて、効果が見られるのではないか。
 また、一方でまちなかには豊田市美術館があって、展示機能だけではない、アートを発信する役割を担いつつあるし、例えば文化振興財団が手掛ける農村舞台事業なども浸透してきており、様々なアートが市内で展開してきている印象がある。

 亀田氏は、何をやるのかとともに、なぜやるのかという視点を常に持つ必要性を語る。確かに、コーディネーターは常に言葉でコンセプトを説明して共有してもらう役割を担っている。しかし、同時にすべてをシステマティックにしてもだめで、そのまち特有のゆるやかな時間や人間関係に身をゆだねることも大切だとのこと。
 先に話題になった非日常の時間/空間を取り戻していくことともつながるが、現代的な集中・効率的な時間の使い方と、ゆったりとした時間の共存、バランスの感覚が重要だと語る。

アートのこれから、人材育成は場と機会を作ること
 これからを考えた時に、アートをどうしていくか?と大きく考えるのではなく、自分自身がどう生きたいか、時間をどう使いたいかを考えると、必然的にアートに触れることになるのではないかと亀田氏は語る。例えば、亀田氏は就職した時に寮生活で2人部屋だった。1人の時間が欲しくて美術館に通ったりして作品をゆっくり見たり感じる自由が生活の中でとても必要だったと振り返る。そのような、生活する上で何が必要かを考えた時に、アート、芸術が見えてくるのではないかとのこと。

 豊田市においては、デカスプロジェクトはじめ、あそべるとよたプロジェクトやまちさとミライ塾、その他さまざまなものが同時進行的に展開していて、すべてアートと言ってしまっていいと思う。そういう意味では豊田市のアートは花盛りと言えるのではないか。しかし、一方ではアートディレクター、コーディネーターが不足している、人材育成が必要だとも言われている。

 亀田氏は、デカスプロジェクトをやる時に人材育成をやって欲しいとも言われて、企画者を育てる場としてシデカス隊を作った経緯もある。
 石黒氏は、でも人材育成だけに目がいってしまうことも危険で、場所と機会があれば、自然と人は育つのではないか、人材育成という題目だけ唱えると、例えば人材育成講座をやればいいという発想になりかねないのではと言う。ただノウハウだけがあっても人は動かないのではないか。やはり人間関係の中で、じゃあ参加しよう、という動機づけもあるだろうし、そのような繋がりを作っていくことが人材の育成につながるのではないか。

 最後に亀田氏個人の来年再来年の活動の展望を聞いた。デカスプロジェクトのモデル事業は3年やろうと言っているので、来年が3年目になる。また、長年続けている公演プロデュースも来年10年になるので、そこでまた新たな10年を考えていきたいと思っているとのこと。また、Arts&Theater→Literacyでのレポート、レビューも引き続き発信していきたいとのことだった。

最後に
 アートというと、狭義的な美術ということだけでなく、芸術全体を包括するものでもあるので、「アートとは?」と話し出すとどうしても漠然とした話になりやすい。
 ただ、漠然としていていいのではないか、それほど自由なものなのだ、とも思う。アートとは何かと答えを求めるとどんどんアートから遠ざかってしまうというジレンマに陥りやすい。
 豊田市という位相で考えると、高度成長の中で失われてきたお祭り/祝祭から戦後の一点集客のためのイベントへの移行が一区切りして、アートという視点/切り口で再び非日常性/祝祭を復活させる試みが今展開しているように思う。
そういう意味では、都市部に比べて、歴史・時間の重なりが目に見えやすい田舎の方が、アートとの親和性が高いのかもしれない。アートの様々な可能性を感じることができた対談だった。


ゲスト:亀田恵子(かめだけいこ)
現代アート・舞台芸術評論家。豊田市在住。2007年、Arts&Theater→Literacyを設立、評論活動のほかにも、アーティストのPR支援、公演プロデュース、講師、ラジオパーソナリティなど様々な活動を行っている。とよた農村舞台アートプロジェクト実行委員、とよたデカスプロジェクトのモデル事業「小渡・アートミルフィーユ」主宰、シデカス隊隊長。
Arts&Theater→Literacyブログhttp://atl-since07.blog.so-net.ne.jp/
サイトhttp://keikoartliteracy.wixsite.com/by-office-k
小渡・アートミルフィーユサイトhttp://www.odoartmille-feuille.com/
とよたデカスプロジェクトサイトhttp://decasu.jp/
  

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2016年11月10日

【コラム】<TAG>通信映像版第3回「豊田の映画をとりまく状況、そして人材育成とは?/ゲスト岩松あきら氏」要約と所感

1時間超の映像を見る時間を割くのが難しい方のために、<TAG>通信[映像版]の要約をお送りするシリーズの第3弾、今回は豊田の映画、映像をテーマに岩松あきら氏に話を聞いた。
※映像アップより時間が経ってからの公開になってしまいましたが、どうぞ参考にしてください。すべてを要約できてはないので、よろしければどうぞ映像版をご覧ください。
<TAG>通信[映像版] → https://www.youtube.com/channel/UCIjZssyxVzbc1yNkQSSW-Hg

豊田の映画の歴史、全国の映画の歴史 70~80年代
 豊田の映画の歴史について、岩松氏と筆者で考察するに、個人での制作、学校内での制作はあったようだが、組織的に豊田を拠点として映画作りを行っていた団体等はなかったと思われる。これは、ちゃんと分析したわけではないが、全国的にも、そんなになかったのではないか。
 70年代より、8ミリフィルムの民生化により、いわゆるプロではないアマチュアが映画制作をする「自主映画」が盛んになり、PFF(ぴあフィルムフェスティバル)などのコンテストも開催され、映画会社で修行をして監督になるのではなく、自主映画からプロの世界に入る人材も出だした。しかし、そうやって映画を作っていたのは主に学生であり、都市部に偏っていたのではないか。社会人になってもそのまま映画作りを継続する人材は、ごく限られていたのではないかと思われる。
 岩松氏も高校時代より8ミリにより映画制作を始め、学校内での上映や、大学時代は、演劇界と親密になり、大須の七ッ寺共同スタジオで映画上映をしたり、演劇と映像の融合を試みたりしていたが、豊田や三河地域の地方都市を拠点とするものではなかった。

豊田の映画の歴史、全国の映画の歴史 90年代
 全国的に言えば、90年代から、自主映画のメディアが8ミリフィルムからアナログビデオに変遷していくが、編集のしにくさ、フィルム感のなさなどから、8ミリほど盛り上がらなかった。これは、日本の映画界とも連動していて、戦後の映画隆盛時代からテレビの出現等による下降を経て、90年代は日本映画の最低迷期だったこととも重なる。
 ただ、そのころレンタルビデオ店が全国に乱立し、Vシネマ(映画館公開ではなくビデオ販売、レンタルを目的に作られた映画)が多数作られた。ホストの石黒氏も、富良野塾を卒業後、Vシネマのシナリオの依頼がたくさんあったと振り返る。現在、映画監督として活躍する人材も、この時期Vシネマを手掛けている人も多い。
 もちろん映画館の状況も連動した。豊田においては、駅前にあったアート座とコロモ劇場という映画館が90年代はじめになくなっている。全国的にも、駅前の映画館が段々なくなっていった。

豊田の映画の歴史、全国の映画の歴史 2000年以降
 過去2回で演劇、音楽をテーマにした回でも出たが、2000年前後で1つの節目があったというのは映画にも当てはまる。
 映画においては、パソコンの普及により、デジタル撮影、デジタル編集が可能になり、映像撮影・編集が各段にしやすくなったことだ。筆者もその流れの中で、1999年より映画製作を始め(まさにPC購入がきっかけだった)、岩松氏も大学卒業後一旦やめていた映画製作を再開させている。
 また、シネコンができ始めたのもこのころだ。豊田に関して言えば、MOVIX三好が2000年にオープンしている。ここから邦画の活況が始まり、2006年には邦画興行収入が邦画興行収入を20年ぶりに上回ることになる。
 岩松氏が映画作りを再開した2000年代前半を振り返る。そのころ、この地域でも映画を作り始める人や団体が発生してきていて、映像制作の専門学科を持つ大学や専門学校も増えてきていた。岩松氏も名古屋学芸大学やビジュアルアーツの学生と映画作りをしたりしている中、筆者と出会う。
 筆者は、PCを購入したことをきっかけに仲間内で映画制作を始め、その上映の場として2002年から小坂本町一丁目映画祭をスタートさせる。この映画祭は当初より、地元で作られた映画を上映する、というコンセプトだった。映画祭は年1回の開催になり、上映映画の関係者や、映画祭スタッフとして多くの人材が集まり始めていた。
 そんな中、2005年に筆者と岩松氏が出会い、一緒に映画作りをしようとなり、M.I.F.第1作となる「箱」を制作、その時のスタッフを母体にしてM.I.F.(Mikawa Independentmovie Factory)を設立する。
 当時、全国的にも映画制作人口は増加していたと思われる。自主製作映画コンペの老舗となっていたPFF(ぴあフィルムフェスティバル)の応募本数が2000年代より増加しはじめ、他にも全国で映画祭が多数開催されていた。
 M.I.F.においては、設立当時より、地域での活動、地方都市での映画制作をコンセプトとしていた。メンバーの主流が社会人だったということもあるが、東京に出てプロになることを目指すのではなく、自分の住む町を舞台に、地元の人たちと一緒にいい映画を作ることを目的としていた。地方の時代、地域活性化というキーワードが氾濫してきていた時期でもあったが、実感としては、ハードの革新により手軽に映画制作ができるようになり、地元で映画作りを楽しみたいという人が増えてきたのは自然な流れだったと思う。これは、70~80年代にはなかった発想だったと思う。

2000年代後半から現状
 撮影、編集機材の向上などによる映画作りの環境はどんどんよくなってきたはずだが、映画制作人口が増え続けているかというと、2000年代後半以降、そうでもないというのが実感だ。2000年代前半に全国でたくさん開催されていた映画祭はかなり減ったと思われるし、小坂本町一丁目映画祭でも、全国からの上映作品募集を2007年から開始したが、最初の頃は全国各地から応募があったのに対して、最近はほぼ東京地区からの応募になっている。
 これは、主に映像の仕事をしながら、プロへの足掛かりとして自主映画を製作してコンペに出品している人たちで、地方都市で気軽に映画を作ってみました、という人が少なくなっているためだと思われる。岩松氏も、全国の映画祭に招かれていくと、いつも同じ顔触れ、同じ監督がいるようになったように思うとのこと。
 その原因は、推測の域を出ないが、ネット等で公開して映画祭応募までしないのではないか、ドラマとしての映画作りよりYouTuber的な映像が主流になっているのではないか、映画作りにはチーム作りが必要だが若い人たちにはそれが面倒なのではないか、などの理由を挙げた。
 そんな中で、継続して映画作りと映画祭運営をしてきたM.I.F.は全国的にも珍しい存在になりつつあるのではないか。ハードの発達で映画制作はより少人数でできるようになっている中、地方での映画作りを組織的に継続的に行っている団体はそれほど他に例がないと思われる。

三河映画の試み
 岩松氏は、M.I.F.での活動を経て、2007年頃より「幸福な結末」という映画の制作に取り掛かる。これは、ブラックインディという全国的なプロジェクトに関わりつつ、劇場公開作を制作する試みだった。
 岩松氏は、まずはいい映画を作りたいという一心から制作をはじめ、そのためには1人で作るのではなく、人材を結集しなければならないと考えたと語る。その中で、筆者も「幸福な結末」については脚本、制作プロデュ―サ―として参加する。岩松氏は、そのような中で、人材や撮影地、その他さまざまな協力を地方都市で集結していく過程こそが地域振興であることに気付いて行った、映画を作りたかったら東京を目指すという発想ではなく、地方から直接世界に発信すればいいというコンセプトになったと言う。
 また、映画を作ったとして、自分で会場を借りて、友人や知人などに見に来てもらう上映会をするというサイクルから脱する必要性も感じていたという。そしてその先には劇場公開ができるようなクオリティの映画を作る必要があるという思いもあった。
 映画作りを再開しようと思った時に、お金もない、機材もない、スタッフもキャストもいない、これじゃやっぱり映画作れないな、とあきらめかけていた時に、とある人から「そんなもんやればいじゃん」と言われ、すべて自分への言い訳に過ぎなかったと気づいたと語る。東京にいないことを映画が作れない言い訳にしたくなかったという思いが、三河映画という試みに結集しているという。
 三河映画は、現在第2弾「Ben-Joe」の撮影真っ最中だ。

豊田をとりまく映画の状況とこれから
 現在、市民映画(行政なども絡んで、市民一体で映画を作ろうというプロジェクト)の制作が増えている。西三河地域でも、高浜や碧南、刈谷、岡崎などで次々と制作されている。そんな中で、豊田では市民映画が作られてない現状がある。
 1つには、岩松氏も筆者も、市民映画といってあまり面白い映画がない、あるいは監督やスタッフを東京から呼んできて撮ってもらうのはちょっと違う、という思いがあり、市民映画という形にせずに「幸福な結末」や「Ben-Joe」を作ってきたという経緯もある。
 また、一方では、豊田市駅前にシネコンがオープンするのに合わせて「映画を活かしたまちづくり実行委員会」も立ち上がり、やっと行政も絡んで、映画文化を醸成していこうという空気が出始めており、その先には市民映画制作は当然出てくる話だと考える。
 さらに、現在、豊田市に在住している黒土三男監督作「星めぐりの町」の制作も進んでいる(2017年3~4月撮影予定)。これも、豊田を映画の街にする大きなきっかけにしなければならないだろう。
 豊田をとりまく映画の状況は、M.I.F.や三河映画の自主的な活動を経て、シネコンオープンなどを契機に、映画をより市民全体で盛り上げていく時期になりつつある状況だと考える。

そして人材育成とは?
 最後に、人材育成についての話をした。M.I.F.は、映画制作と映画祭運営を両輪の活動としていて、ほとんどみんな映画作りなどしたことのないメンバーが、いちから映画作りを模索し、新しい人材を積極的に受け入れノウハウを引き継いできたのだが、徐々に、映画作りの過程のルーティン化はされたが、いい映画を作りたい、たくさんの人に見せたい、という思いや情熱という一番大切な部分がうまく継承されていかなかったと反省している、と筆者は投げかけた。
 岩松氏は、やはり映画制作の現場で、いい映画を作るには労力とアイディアと思いが必要だということを経験してもらう、現場で人材育成をしていくしかないのではと語る。
 石黒氏も、芝居を見ていて、関心はするが感動はしない、ということが時々あると言う。確かに、若い人たちの作品を見て、もっと無茶やっていいのに、もっと思いをぶつけていいのに、という行儀のよさを感じると筆者も思う。
 ということで、最後は、岩松氏が常に現場で映画制作を続けているように、石黒氏と筆者も本格的に芝居作りや映画作りをする現場を作っていきましょう、となった。


ゲスト:岩松あきら(いわまつあきら)
映画監督。高校時代より自主映画を撮り始め、これまでに国内外の様々な映画賞を受賞。2007年映画製作団体M.I.F.設立に参加、2010三河映画を立ち上げる。“三河映画”は、地元(人・企業・行政)から多くの協力と支援を得て、2011年、第一弾作品『幸福な結末』を完成。現在、小学校教諭だった岩松監督の教え子の身に「実際に降りかかった事件」を原案とした“三河映画”第二弾作品『Ben-Joe』の撮影真っ只中。
映画『Ben-Joe』の公式ホームページhttp://mikawaeiga.com
三河映画facebookページhttps://www.facebook.com/Benjoe.movie
  

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