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2019年01月25日

【コラム】劇団ドラマスタジオ公演「光の春」観劇レポート 清水雅人

 2018年12月1日2日に豊田市民文化会館小ホールで上演された劇団ドラマスタジオ第24回公演「光の春」観劇のレポートをしたい。まず、本公演の概要についてだが、トピック的な情報を冒頭で掲出しておく。
 ・豊田にて現在活動するもっとも古い劇団ドラマスタジオの初のオリジナル作品である(ドラマスタジオはこれまで一貫して既存の舞台シナリオを上映することをコンセプトとしており、オリジナル作品上映はしてこなかった)。
 ・そのオリジナル作品の作演出を豊田演劇界を長年ひっぱってきた石黒秀和氏が行った。
 ・役数が多く、劇団員以外の演者は広く公募して集められた。
等々。
 筆者は2日目、12月2日の公演に行ったが、集客については、2/3くらい席が埋まっていてそこそこ入っている印象だった。後日石黒氏に聞くと、1週間前くらいまで前売券が全然余っている状況だったが、本番前数日で一気に売れてホッとした、とのことだった。

 作演出の石黒氏について改めて簡単にプロフィールを紹介しておこう。
 テレビドラマ脚本家を目指して高校卒業後、倉本聰氏が主宰する北海道富良野の富良野塾に入塾。その後豊田に戻り、とよた市民創作劇、とよた市民野外劇等に関わる。その後、とよた演劇アカデミー、豊田演劇バトルT-1等立ち上げを経て、2017年とよた演劇協会設立、会長を務める。また、この<TAG>を筆者とともに行っている。

 とよた市民創作劇に関わっていた当時より、石黒氏自身がテレビドラマ脚本家を目指していたこともあり、非常に映像的な作劇、演出が特長と言われてきた。具体的に言うと幕、シーンが多い、登場人物が多い等々。
 もちろん過去の作劇の中には一幕ものもあるが、やはり“映像的な劇作家”という印象が強いのではないだろうか。
 そういう意味でいうと、今回は思いっきりやりたいことをやったというか、自分の世界を展開した、映像的な作劇をつらぬいた印象だ。例えば、市民創作劇や野外劇等については、たくさんの演者を舞台上に登場させなくてはならない、演者の力量の問題等物理的な制限の要請によりシーンを多くしたという要因もあったと思うが、今回はドラマスタジオという老舗劇団の公演ということで、そのような要請はなかったと思われるので、“やっぱりそういう作劇がやりたいんだな”というのが第一の感想だ。

 ストーリーは、“東”と“西”に分断された2国、川を挟んで没交渉している2国のそれぞれを描いていく。ただし、描かれるのは市井の人々であり、淡々とした日常が描かれ、説明的なセリフもないため、分断された2国の状況、歴史は少しずつしかわかってこない。公演のほぼ前半はシーンを丁寧に重ねてパズルのように状況の輪郭を見せていくことに時間が割かれる。公演前の予告等の段階では、(南北に分断された)朝鮮半島をモチーフにしている雰囲気もあったが、本公演では、もっといろいろな要素、もっと歴史的に何層にも重なった要素が入っていたと思う。例えば冷戦中の東西ヨーロッパ的な要素、例えば日本が太平洋戦争後分断統治されてたらと思わせる要素、等々。あるいは、村上春樹的なこちらの世界と向こう側の世界という世界感や、宮崎駿的ナウシカ的な要素も感じられた。生活ぶりの質素さが昔ではなく核戦争後の近未来という雰囲気もあった。原子力発電と思しきものも登場して、極めて現代的、社会的なモチーフも多数出てくる。そういう意味でも、石黒氏が自らのこれまでの影響等も開放して、惜しみなく、隠さず出してしまっているな、と思った。

 ちょっと視点を変えよう。随所に出てくる絵画的なシーン、動く絵画(まさに映像的だと言えるが)のようなシーンも多数あり唸った。例えば、川の“東”と“西”を、舞台上と観客席中央部分で分けて表現するシーンが何回かあったが、舞台上で噴出されたスモークが、川の靄を表現しつつ、それが少しずつ観客席に流れて行き、観客席中央で演劇している演者のところにゆっくり到達する感じなど、実際に川が両者の間にあるような、距離感、時間感覚も含んだ錯覚を演出していた。照明の巧みさと合わせていいシーンだったと思う。

 そして、つい当たり前に思ってしまいがちだが、シーンの重ね方が非常に丁寧だということは言っておかなくてはならない。このような群像的なドラマは観客に対して決して親切に説明をしてくれないので、シーン構成を間違うと一気に集中力を奪ってしまう危険があるが、先ほどいった絵画的なシーンも織り交ぜながら、丁寧にシーンを重ねることで飽きさせない。具体的な部分で説明するのは難しいが、職人的な作劇のなせる技だと思う。

 ストーリーは、ちょうど中ほど、老夫婦が自分の子どもを探すために川を渡ろうとする、隣国に行こうとするシーンから一気に動き出す。ただ、ここからはちょっと急いだかな、という印象だ。エピローグとしての前半とプロローグとしての後半がくっついていて、まん中が抜けてしまった感じだろうか。2時間プラスアルファの公演時間内でそれなりの結末を出さなければという制約の中ではしかたないと思うが、ストーリーのスケール感は倍、いや3倍くらいあったと思うので、完成版を観たいな、という物足りなさを感じてしまった。

 いずれにせよ、物語の世界感、スケール感、安易な答えやメッセージを提示するのではなく観るものに委ねる作劇はさすがだったし、満足感のある公演だったと思う。本作の続きなのか、連作なのかが今後あるかはわからないが、もっと深く知りたいと思わせる内容だった。

 さて、最後に、公演の外側について蛇足的な心配を1つ。本作のような“映像的作劇、演出”は演劇では確かに王道ではないのだろう。この公演が例えば多数の劇団が存在し、多数の演劇公演がある、王道的な芝居もあり新しい芝居もあり異端な芝居もある名古屋であったのならば、様々なジャンルの演劇公演の中のいち公演として評価を受ければいい。だが、本作は豊田での公演であり、豊田の演劇界の中心にいる石黒氏の作演出であり、豊田の老舗劇団ドラマスタジオ公演であることを考えると、正確な評価を受けにくい状況なのかな、と思ってしまう部分もある。例えばあまり舞台を見慣れてない人、例えば説明の少ない映画等を見慣れてない人には、ちょっとわかりにくかったかも、と思わないでもない。
 “それでもこれをやるのだ”という石黒氏の強い意志は感じたので、それはとてもよかったのでだが、その“立ち位置”がゆえのジレンマはあるかなと思った。
 ただ、それは、豊田での演劇公演が増えていき、様々な要素の演劇が見られる状況、演劇鑑賞者が増えていく状況になれば解消する問題だと思う。なので、石黒氏の早期の次回作公演を期待し、また、育ちつつある豊田の演劇人材による演劇がもっともっと公演されることを期待したい。

清水雅人
映像作家・プロデューサー。<TAG>発起人。映画製作団体M.I.F.元代表。映画製作の他にも、小坂本町一丁目映画祭運営、豊田ご当地アイドルStar☆Tプロデュ―スなどを手掛ける。
  

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2018年09月19日

【コラム】Recasting Weeks 「HYBRID BUNKASAI」とは? 天野一夫

お待たせしました!
「HYBRID BUNKASAI」が開催されました。
と言っても知らない方も多いと思いますが、ほぼ一年前の昨年11月に、豊田市美術館の隣に位置する旧豊田東高校で、「On Stage! On High School!」と題しプレイベントが開催されました。それが「とよた市民アートプロジェクト」によるはじめの一歩でした。旧東高校の武道場をその名も「豊田武道館」と読み替えて、豊田発の国際的な活躍を見せるバンド「TURTLE ISLAND」を核としてステージを中心に展開し、そこに高校生バンドなど市民がさまざまな局面で横断的に係わる形となりました。結果は旧東高校OGも含めまさしく老若男女多様な人たちが来場し、約600名以上の来場者でにぎわいました。

 それ以後、「豊田武道館」に電気が通りましたが、相変わらず他の部室をはじめとした施設に電気は来ていませんし、水道も無く今回も隣の美術館からのもらい水です。しかし今回の「HYBRID BUNKASAI」では初めて公募で参加者を募ると、徐々に増えて最終的に35件の応募となりました。うれしい限りです。それも前回と異なり、舞台だけでなく、意外にも部室や温室などこれまで封鎖していた場所も新たに創造の場として開いてくれました。それだけに初めから展示場として用意されているところではなく、皆で自然状態に帰る前に掃除をし、最低限整え、再び息を吹き込む必要がありました。

 なぜか子どもが音響操作をしながら校内放送で放送局のようにライブのトークが始まり、公演を知らせ会場効果は充分です。あるいは突然に神出鬼没のパフォーマンスが始まり、発表、販売の傍らさまざまなワークショップが行われています。キッズから大人までが劇やダンスをし、ブラジル音楽・マラカトゥを奏で、校舎に壁画を描き、歌って踊る似顔絵屋が居る。さらに保見のブラジルの人々や豊田の写真、消しゴムはんこ、いけばな、伝統園芸を展示し、音楽・映像・小原和紙のワークショップがある。雑貨店やとよたで話題の食の店舗も参加します。それに現・東校の美術部の展示の参加も感激です。むろんそこにこれまでの「とよた市民アートプロジェクト」のRecasting Clubのメンバーも直接参加し、またサポートするなどいろいろな面で活躍しています。また自然に「とよた演劇アカデミー」や、豊田市美術館の作品ガイドボランティアなどこれまでの市内の活動が反映していることも特筆すべき点です。そこに既に全国的にメジャーデビューしているアーティスト(ミュージシャン「テニスコーツ」、独自の社会派のデザイナー山下陽光) や愛知県を中心に発表してきた作家たち(クロノズ、世紀マ3、ジェット達などのパフォーキンス・公演、そして豊田発のアイドル・Star☆T他)が参加してくれます。

 プロ/アマの区別なく、ひとつとして拒否せずに、何らかの趣味・考えで統一せずに全ての創造力を飲み込んで、まさに「HYBRID BUNKASAI」。整った完成度ではなく、そこには生のままのものが露出して出会おうとしています。作家も市民の中に入って試される場になるでしょう。意外にもこれはなかなかに無いことです。制度的な中で整理して発表し、理解しているからです。その制度をなるだけ低くすることで、どのような状態が生まれるのか、ディレクターのアーティスト・ユニット「Nadegata Instant Party」にも誰にもそれは未だ分り得ません。
かつては挙母城があり、そして県下唯一の公立女子高校が移転してほとんど未踏の10余年、そして数年後には(仮)豊田市新博物館が建設されようとしている(その計画も紹介される予定)場所。その数年の隙間のような時間と場所でさまざまな人たちによってどれだけのことが出来るのでしょうか?はたしてそのことがこの街の本当の将来の力のカギがあるのかも知れないのです。

Recasting Weeks 「HYBRID BUNKASAI」サイト → http://recastingclub-toyota-art.jp/event/517.html

天野一夫
豊田市役所文化振興課副主幹。国際美術評論家連盟会員。1959年生まれ。学習院大学大学院博士前期課程修了。
O美術館学芸員、京都造形芸術大学教授、豊田市美術館チーフキュレーターを歴任。
主な企画展に「書と絵画との熱き時代」展(O美術館、1992年)、「ART IN JAPANESQUE」(O美術館、1993年)、「「森」としての絵画 – 「絵」のなかで考える」展(岡崎市美術博物館、2007年)、「六本木クロッシング2007:未来への胎動」(森美術館、2007年/共同企画)、「近代の東アジアイメージ – 日本近代美術はどうアジアを描いてきたか」展(豊田市美術館、2009年) [同展で、倫雅美術奨励賞美術史研究部門 (2010年) 等受賞 ] 、「変成態―リアルな現代の物質性」展(gallery αM、2009~10年)など。
主な著作に『「日本画」 – 内と外のあいだで』(ブリュッケ、1994年、共著)、『美術史の余白に――工芸・アルス・現代美術』(美学出版、2008年、共著) 、監修『復刻版 書の美』(国書刊行会、2013年)等がある。

  

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2018年09月07日

【コラム】とよた演劇祭「美術がうみだす舞台」観劇レポート 清水雅人

 2018年8月11日に豊田市民文化会館の大会議室で開催された、とよた演劇祭「美術がうみだす舞台」の観劇のレポートをしたい。
 とよた演劇祭サイトには、
「とよた演劇祭は、2011年より5年に渡り行われた『とよた短編演劇バトルT-1』の終了後、とよた演劇をより活性化すべく、
以下の3点を目的として始まった。
 ●豊田のお客様に演劇をより身近に感じてもらうこと
 ●空間を活かした作品づくりを低予算で行う力を養うこと
 ●豊田の演劇人に公演の機会を提供し、とよた演劇祭アカデミー修了生には最初の受け皿となること」
とある。開催は年に1回で今回が3回目。筆者は、第1回目は観劇、2回目は行けなかった。記憶が正しければ、第1回は「とよた短編演劇バトルT-1」を継承した形の複数劇団による短編演劇公演、2回目は公募脚本作品+αだったと思う。毎回新たな挑戦をしているという印象で、今回は、「美術がうみだす舞台」、舞台美術家杉山至氏の舞台美術がまずあり、その空間を起点に作り上げる演劇/パフォーマンス3作品という企画とのこと。<TAG>通信[映像版]でも話しているが、“現在の豊田の演劇の実力を測る試金石的な企画”との期待を持って会場に向かった。

 会場は豊田市民文化会館2階の大会議室。ここは元々国際会議にも対応できる会議室で、長方形の広い空間に楕円形の円卓がぐるっとあったようだが、その円卓はすでになく、代わりに杉山氏の美術が円卓のあった場所に施されている。
 その周りにイスが配置され、およそ100~150人の観客はこの会議室の三方壁側のイス(ここの会議室に元々あったちょっといいイス)に座る。中心の演劇空間を観客がぐるっと囲む感じだ。
 筆者は開演の10分ほど前に会場に入って席についたが、円卓を模した、しかし骨組みのようになった舞台美術を挟んで、向かい側にいる他の観客と対峙することとなる。この空間と、開演前のちょっとした緊張感が相まって、まるで1人で参加する、知っている人のいない会議に来てしまった時を思い出し、自分もこれから演劇に出演するような錯覚を覚える。多分イスについた他の観客も同じような気持ちを抱いているようで、その緊張感の渦のようなものが空間を包む。
 我々はまんまとしてやられたようだ、演劇が始まる前に、我々はすでに演劇の一部になっていたのだから。そして、開演した。

 1部は、新人枠として、とよた演劇アカデミー10期生(昨年度の修了生)を中心に結成された演劇グループteam10+(「チームてんぷら」と読むそうだ)による20分の短編作品「青地図」。鬼伝説をテーマに住処を追われた鬼たちが新天地を求めて航海に出る船上の設定だ。作者、演出がパンフレットやアフタートークでも語っていたが、美術に囲まれた馬蹄形の空間を船に見立ててストーリーを作っていったとのこと。美術に囲まれた閉鎖的な空間は、確かに船上の閉塞性と通じ、登場人物すべてが鬼という設定や、鬼伝説の悲しい歴史背景(一説には、鬼は渡来人に迫害されて居住地を追われていった縄文人との説もある)と重なって、非日常的な異世界が現前したようだった。しかし、徐々にその重厚な世界観をくすぐるコミカルな場面や言葉遊びが現出してくる。ともすると、そういう流れは世界感を壊したり、興ざめさせてしまう危険性を帯びているが、ここでは、重厚さとコミカルさが微妙なバランスで融合して、独特な雰囲気を作り出していた。演出の力量が試されるところであり、概ね成功していたと思う。
 強いて残念なところをあげれば、本作は第1話で話は続いていくという設定だったが、そういう設定でありつつも今回のストーリー上での着地点も欲しかったかなと思う。本作は第1話で続きは次回、というオチ自体が唯一の着地点になってしまっていて、ちょっと物足りなさを感じた。本筋のストーリーの展開~着地があり、そこに言葉遊びや連続ドラマ設定等のバリエーションが絡んで・・・とうのは欲張りすぎだろうか。

 2部は、招請枠として、名古屋を中心に活動するダンスカンパニーafterimage(アフターイマージュ)+公募ダンサーによるダンスパフォーマンス約30分「     」(タイトルなし)。冒頭、ダンサーが部屋の間取りの説明を始める。何もない空間を動きながら体を使って、“ここが玄関、玄関を入ると廊下があって・・・”と続く。1人2人とダンサーが増えていく。終わったダンサーははけまた新しいダンサーが間取りの説明を始める。それぞれの説明や動きは一瞬重なったりするが集約はされない。多分構成が計算されているわけではなく、即興的に奇跡的に一瞬だけ重なっているのだと思う。しかし、この多様性、ポリフォニックな声の重なりが段々と心地よくなってくる。それは同期しない。私は坂本龍一氏が昨年発表したアルバム「async」を連想した。acyncとは同期しないという意味。反復がロジカルな概念をそぎ落としていく。
 そして、チリンチリンと小さな鐘/鈴の音とともに、コンテンポラリーなダンスが始まる。ここでも各ダンサーは同期しない。しかし時折抱き上げたり放り上げたりなどの協力はある。そこにバックのかすかな音楽に交じって演説らしき音声が聞こえてくる。その声は段々大きくなる。どうも田中角栄の演説のようだ。その演説は、日本の成長を、明るい将来を未来を希望を語る。ものすごいエネルギーだ。しかし、我々はこの演説の50年後の日本、今の日本を知っている。発展は止まり、将来は暗く、なんでも揃っているが希望だけがない今を知っている。だが次第に、延々と続く演説と、延々と続くダンスが、私に小さな気づきを与える。希望を語ることがどんなに難しく、安易に希望を語れば安っぽくなってしまう今、しかし、ここで表現されているのは希望であると気づく。私は不覚にも続くダンスを見ながら落涙してしまった。こんな形で表現される希望を初めて観たし、自分も一人の表現者として、それでも希望をいかに描くかを考え続けている身として、感動したパフォーマンスだった。舞台/パフォーマンスを体験する中で、もっとも幸せであり、かつごまかしのないまっとな表現がそこにあったように思う。

 3部は、公募から選ばれた脚本を元に、豊田を中心に活躍する俳優/演出家の古場ペンチ氏が演出、出演者も公募で選ばれた約35分の短編作品「象牙の船に銀の櫂(かい)」。病院が舞台の作品で、3作品の中ではもっとも現実的でリアルな設定になっている。空間もそのまま(病院の)会議室としてイメージされているようで、ストーリーもテレビドラマ、サスペンスドラマ、病院ドラマ的な要素、病院経営や医療過誤、医師業界のヒエラルキー等々が詰め込まれている。そんな脚本のストーリーを演出の古場ペンチ氏は演劇的なフォーマットにいかに転換していくかに苦心したように思えた。演劇的な演出を随所にちりばめながらストーリーのベタ感を演劇的に昇華している印象だ。もしかしたら、1部の異世界観、2部の抽象性を横目に見つつ、この演劇祭の全体のバランスも考慮したかもしれない(考えすぎかもしれないが)と思った。
 ただし、開かれた演劇祭として、普段演劇に親しみのない観客にとっては一番わかりやすく、入りやすかった作品だったと思う。そういう意味で、演劇祭全体のバランスもとてもよかったと思う。

 以上的外れな部分もあると思うが、観劇の感想を率直に書いた。冒頭で言った“現在の豊田の演劇の実力を測る試金石的な企画”という期待は、内容、そしてこのような演劇祭が豊田で企画され開催されたということまで含めて、裏切らなかったと思う。
引き続き、挑戦的かつ刺激的かつ安心して観れる演劇を、豊田で継続的に実現していって欲しい、と期待するばがりである。

清水雅人
映像作家・プロデューサー。<TAG>発起人。映画製作団体M.I.F.元代表。映画製作の他にも、小坂本町一丁目映画祭運営、豊田ご当地アイドルStar☆Tプロデュ―スなどを手掛ける。  

Posted by <TAG>事務局 at 19:33Comments(0)コラム

2018年07月13日

【コラム】劇団ドラマスタジオ公演「煙が目にしみる」観劇レポート 田村優太

 6月23・24日に市民文化会館小ホールで開催された、劇団ドラマスタジオ第23回公演「煙が目にしみる」を観劇してきました。

 劇団ドラマスタジオは2000年に旗揚げされた、豊田市内でもっとも歴史のある劇団です。

 この作品は田舎の斎場を舞台にした火葬される二人の男とその家族にまつわるお話で、20年ほど前に堤泰之さんによって描かれた作品です。

 開演後、まず目を見張るのは斎場の窓ガラスに映る大きな桜の木です。正確にはわかりませんが、5,6m程の大きさで、幹も枝もしっかりと作られているように見えます。
 この桜の木を若干幻想的な照明でライトアップし、花びらをひらひらと散らせている画面がとても美しい絵となっておりました。

 話としては、火葬される二人の会話から始まるのですが、お二人とも小ボケを少々おりまぜて、見ていて非常に楽しかったです。
 ただ残念だったのは、この二人の役者の年齢が離れすぎているというところです(実際の年齢はわからないので、あくまで見た目がですが)。この二人、見た感じは30代前半と60代の男性なのですが、設定としては、30代の男性の方が、もっと年輩のようになってると思われる内容でした。この年齢差のせいで二人が言い争う所や、そのほか色々な部分で違和感を感じてしまい、上手く入り込めなかったです。
 二人は最後まで物語のキーとなる人物なので、そこらへんは拘って欲しかったと感じます。

 中盤からは、各家庭の問題が浮き上がって来て、テンポがよく話が進んでいきます。後半は二人と家族の別れを中心に描き、しっとりとした中、ちょっとしたお笑い要素があり、非常に楽しく見ながらも、涙腺が緩んでいく、不思議な感覚に陥っていきました。
 その分、家族の問題がひと段落してから終演まで(起承転結の結に当たる部分)が長く、後半の感動が冷めていく感じもありました。このあたりは戯曲による部分も多いかと思うのですが、もう少しテンポよく終わらせて欲しかったとも思いました。

田村優太プロフィール
とよた演劇アカデミー9期修了生。現在演劇アカデミー9期生を中心に結成された「劇団 栞ちゃんのしおり」の代表を務める。
  

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2018年06月05日

【コラム】舞台照明と街路灯 本多勝幸

 <TAG>通信[映像版]でもお話した通り、豊田市駅前で都合三回、唐十郎の紅テント公演を行いました。その時できたご縁で横浜赤レンガ倉庫一号館ホールこけら落とし、花園神社、大阪中之島等々ご案内をいただく度に各地の紅テント公演に出かけては観劇を楽しみました。沢山の感動といろんな気づきがあり、後の挙母激励フェスティバル(石黒さんとやった挙母神社テント芝居)に続くのですが、商店街からみて何が一番参考になったかと言えば、それは「舞台照明」です。狭いテント、特別な仕掛けの無い小さく薄い舞台が、シンプルな照明の切り替えで昼が夜になり屋上が地下になり団欒の場が凄惨な事件現場と変わることに驚きと、これは使えそうだという感触を得ることができたのです。

 というのは、この頃ちょうど一番街商店街を含む竹生線の改修工事の話が纏まりつつあり、歩道に立つ街路灯の建て替え計画も同時に進んでいて、アイデアを求めていた時期と重なったからです。いくつもの街路灯会社がカタログを持って売り込みに来ていました。しかし、どこも「洋式がいいですか?和式がいいですか?」とトイレかと思うような紹介や、「うちの街路灯は明るいですよ」でも照らされる街の明るさは未計測、こんな感じのところばかりで、満足できる街路灯論を持った会社はひとつも無く困っていました。その私たちが紅テントから照明ひとつで景色がどれだけ変わるものかを学ぶことができました。目立つ街路灯ではなく、街を目立たせる街路灯を欲する気持ちになっています。街路灯会社にも舞台を照らすような灯りを求め、こちらからも具体的な設計について提案をするようになりました。幸運なことに一社だけですが提案を検討してくれる業者があり、それからはその会社と共にデザインを起こし、一番街商店街の夜景作りを行いました。

 その結果できあがった一番街オリジナル街路灯は色がピンクで高さ7メートル、一基あたりLED16灯というものでした。色は歩道のタイルと同系色で舞台照明である街路灯を街の中で目立たせないため、高さは歩道車道両方とお店の看板を同時に照らし且つ光源を歩行者の視野から外すため、LED16灯は街路灯の立つ場所に応じて一灯一灯の角度を調整するための仕様です。

 さて、立てられてから約10年、今でも商店街としては充分満足できる街路灯だと思っています。どうでしょう皆さん、ぜひ街を訪れてご覧になってください。紅テントの舞台照明が発端となった、いまだによそとはちょっと違う街路灯の光、照らされた街を楽しんでみてください。一番街は南は豊田信用金庫本店から北はコモ・スクエアまでです。街路灯の光なんて、普段は意識しないものだと思いますから、このコラムをお読みいただきそして街路灯と街を見て、さらに感想まで伺えたら最高です。

 <TAG>の収録が終わってから芸術とはなんだろ、文化とはなんだろ、ずっと考えていました。
 芸術は独りでも成り立つものかも知れませんが、文化には多くの共感する人たちが必要です。ハレ(特別な場所やもの)からケ(日常の生活)へ、人と人の間へ滲み出すものがなければ芸術は民衆の文化になれないと思います。

 私が関わっている豊田おいでんまつりにしても、踊ってる人と観に来た人たちだけが満足していてはだめで、テレビ・ラジオで見聞きするだけ、ひとづてに話を聞いただけの人でさえも、市民であればだれもが「豊田市にはおいでんまつりがある」と誇らしげに言えるようになって初めて豊田の文化だと、行政の言ういわゆるWe Love だと、文化として市民の共感を生んでいるんだと言い切れると思うのです。イベントとしての成功だけを追い求めている間はまだまだです。

 さて、長くなってしまいました。豊田市で開催されるイベントは、終わったらサラッと忘れて次のこと、って言うものが多いので、さしあたって来年開催されるラグビーW杯がこの街に余韻や残り香を残せるものであることを心より祈り、この原稿を終わりとさせていただきます。ご精読ありがとうございました。


本多勝幸(ほんだかつゆき)
ホンダ薬局店主、一番街商店街理事長。1960年生まれ。豊田に生まれ、小さいころから音楽・オーディオ機器にのめり込む。大学卒業後修行時代を経てホンダ薬局を父より継ぐ。JC(青年会議所)活動の後、一番街商店街理事長に就任、他にも豊田おいでんまつり踊り部会長など。また、唐十郎氏が主宰する「紅テント」の招へいや、挙母神社でのテント芝居「翔べ!ジョニー」(2009年 石黒秀和作演出)の主催・出演、「サードlab.」出演(2011年)など演劇等文化芸術人材との交流も深い。2018年5月<TAG>通信[映像版]ゲスト出演。  

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2018年05月29日

【コラム】二重性と後ろめたさの先に―<TAG>通信[映像版]を通して― 清水雅人

 忙しさにかまけて、やりたいことをなかなかやり切れてない<TAG>だが、そんな中なんとか2016年のリニューアル以来続けてこられたのが<TAG>通信[映像版]だ。これは、<TAG>発起人の石黒秀和氏と私がホストになって、豊田の文化芸術に関わるゲストを毎月お呼びしお話を聞き、その映像をノーカットで公開しているもの。
 そもそもは、「お近づきのしるしにちょっと一杯飲みますか」なんて時に伺う話を記録しておきたい、せっかくだからみなさんに公開しようという軽い気持ちで始めた企画だが、なんとか2年を迎えようとしている。ゲストも20組を数えた。
 ここまで続けてこられたのも、ひとえに様々なジャンルで活躍する人の話を聞くのは楽しい、ということに尽きるが、特にゲストの生い立ち、現在の活動等に繋がるまでの経歴等をお聴きする中で、自分のこれまでの人生(というと大げさだが)も振り返る機会にもなって、そういう意味でも楽しい。
 今回は、そんな中で感じたことの1つをまとめてみたい。

 いつの回だったか忘れたが、一緒にホストを務める石黒秀和氏(氏と私は1969年生まれの同い年である)の「小さい頃、トヨタ自動車だけには入りたくないと思っていた」という発言がとても印象的に頭の中に残っている。
 それまでの回でも、「日本の文化がこれほど世界に発信されるとは思わなかった」「アメリカやイギリスの音楽こそが目標だった」等々、演劇や音楽の歴史について、ゲストに聞いたり、自分の過去を振り返る中で私自身感じたり発言してきたが、石黒氏の発言には深く頷かせられた。
 そう、私も若い頃は、豊田という田舎を早く出たいと思っていたし、トヨタ自動車には入りたくないと思っていたのだ。
 だが、そこを定点として自分のこれまでを俯瞰的に見てみると、すべてが二重性を帯びていることに気づく。若い頃は東京に行きたいと思っていたが現在はこの豊田という地方都市で活動することこそに意味を見出している、若い頃はアイドル音楽を下に見ていたが現在はアイドルにこそポップスの普遍性を感じている、若い頃は漫画やアニメをバカにしていてが(本当は大好きだったのだが)こんなにも世界に発信するジャンルになるとは思ってもいなかった、などあげればキリがないが、私はこの二重性の中に今もあり、薄々ながら後ろめたい、昔は逆のことを思っていたのに、という気持ちをずっと持っている。
 これは、世代的なものなのかもしれない。私が10代の頃までは、日本の文化芸術(特にエンターテイメントの分野は)が世界に評価されることはまれだったし、日本の車や電化製品は世界で売れ始めていたが日本製はすべてモノマネだと言われて、そこに誇りは感じられなかった。私たちの世代の子供の頃は、まだ戦後は終わってなく、アメリカに犯された(アメリカのすべてに憧れた)最後の世代なのかもしれない。
 しかし、同時にすべてを世代論で片づけてしまうのも危険なのだろう。これまでの20組のゲストの中で、昔から地元にいることに意味を見出しブレてない人もいたし、自然に地元にずっといた人もいるし、逆に外を目指した人もいたし、外で敗れて戻ってきたことを糧にしている人もいた。そこに世代論が当てはまらない場合も多々あった。

 ここで言いたいのは世代論ではない。ふと思ったのは、しかし、この二重性/後ろめたさこそが、私たちの強みなのではないかと。私たちというのは、私と石黒氏のことだ。氏と直接、この二重性について後ろめたさについて話したことはないが、きっと同じ思いを持ってきているのだと思う。
 間違っていたことも多かった。それを忘れてはならないと思う。自明のもの、当たり前と思うことも疑ってみる、逆から見てみる、違う見方をしてみる。20年後どうなっているか、世界の日本ブームはすっかり終わっているのかもしれない、社会はもっと悪くなっていることを想像しがちだが、もしかしたらよくなっていくのかもしれない、国家というシステムは崩壊しているかもしれないが、代わりに都市という範囲で多くのものが循環しつつ、直接世界と繋がっているかもしれない。
 <TAG>通信[映像版]で、色んな人の話を聞くことで、いろんな視点、考え方があることを知ることができるのは本当に楽しい。当たり前で変えようがないと思っていること、できないと思っていることをひっくり返してみる、疑ってみる、試してみる。
 <TAG>自体もそういう転換ができないか、地域の文化芸術の情報の流通の在り方をひっくり返せないか、というところから始まっている。  <TAG>通信[映像版]は、豊田の戦後文化史(特にホストの2人が生きてきた昭和40年代以降)を知ることができるという面もあり、記録としても貴重だと思っている。現在はあたりまえのように感じていることが、20年前30年前はそうでもなかったということを知る、思い出すこともある。
 もうしばらくは、この挑戦を見守って、お付き合いいただけるとありがたい。

清水雅人
映像作家・プロデューサー。<TAG>発起人。映画製作団体M.I.F.元代表。映画製作の他にも、小坂本町一丁目映画祭運営、豊田ご当地アイドルStar☆Tプロデュ―スなどを手掛ける。  

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2018年05月24日

【コラム】<TAG>通信[映像版]第20回「商店街とアート、商店街とまちづくり(ゲスト本多勝幸氏)」要約と所感 清水雅人

1時間超の映像を見る時間を割くのが難しい方のために、<TAG>通信[映像版]の要約をお送りするシリーズ、今回は一番街商店街理事長の本多勝幸氏に話を聞いた。
※すべてを要約できてはないので、よろしければどうぞ映像版をご覧ください。
<TAG>通信[映像版] → https://youtu.be/0vKnh_c7s20

豊田中心市街地の変遷Ⅰ(30年ほど前まで)
 今回のゲストは、豊田中心市街地にある一番街商店街にて薬局を営む本多勝幸氏をお招きした。本多氏は、一番街商店街理事長を長年務められ、また、豊田おいでんまつり踊り部会長など商店街やまちづくりに関する活動も多数されている。
 一番街商店街は、喜多町3丁目交差点(コモスクエアの東側)~豊田信用金庫本店・桜城址公園までの通りを挟んだ商店街である。氏はその中ほどでホンダ薬局を営んでいる。
 本多氏は生まれも育ちも現住所地とのこと。もともと本多家は江戸時代より呉服屋を営んでいた、倉庫には江戸時代のものが結構あったりするが、それはうちだけでなくあのあたりの家はみんな古いとのこと。
 そもそもは、桜城の城下町、挙母神社の門前町として栄えた地域で、その後鉄道が通り豊田市駅前となった。
 戦前までは挙母神社から桜町1丁目付近にまっすぐ道があって、本多家もその付近が表で、現在地付近は裏手だった。現在の南北の通りは多分戦中にできたと思う。豊信本店のあたりは田んぼだった。
 本多氏は昭和35年生まれということで、高度成長期の頃からの中心市街地をずっと見てきたことになる。確かに激変をしてきた、あのあたりで、本多氏が子供の頃から現在まで残っている建物は、ホンダ薬局の隣の床屋さんだけとのこと。あとは桜城址の石垣くらいだと振り返る。桜城址も以前は東邦ガスがあって、その裏にひっそりと石垣があったが、東邦ガスが移転して現在の公園が整備された。一番街商店街は、30~35年ほど前にほぼ現在の景色になり、コモスクエアの建設に合わせて歩道等も整備されのが10年ほど前になる。
 筆者も子供の頃(昭和40年代後半~50年代初め)買い物というと家族で駅前まで来ていた思い出がある。当時は駅ビルのトヨビル、長崎屋、ユニーなどがあり、現在の竹生町付近や桜町にはアーケードがかかっていたのを憶えている。本多氏によると、アーケードは自分が大学生の頃まであったと思うので、36、7年前くらいまであったのではないかとのこと。当時はものすごく賑わっていた。特に銀座通りは“賑わい”という言葉がふさわしかった。銀座通りとは、桜町と神明町の町境(現在のホテルアンティーズのあたり)から喜多町にかけての通りのこと。
 当時の賑わいのピークは昭和40年代頃だと思われるが、その後少し賑わいは収まっていく。本多氏の感覚では、ジャスコ豊田店(現在のイオンスタイル豊田店)ができて(昭和50年開業)、お客さんの流れが変わったのではないかと思うとのこと。時代背景を考えれば、高度成長期も終盤となり、車も各世帯1台目~2台目を持つようになった頃で、郊外型店舗の進出とともに、全国でいわゆる商店街の元気がなくなっていった時代と豊田の街も重なる。
 ただし、本多氏は、その時期それほど商店街が衰退をしたという実感はないとのこと。もともとは呉服屋が多いところで、和服の需要が少なくなり呉服屋がなくなっていったということはあるが、それ以外の業種はそれほど影響はなかったのではないか。江戸時代から続いていた本田呉服店は、本多氏の祖父の代に雑貨等の店になり、父の代から薬局店になっていたとのこと(昭和35年開業)。

本多氏経歴
 続いて本多氏の生い立ち、特に文化芸術との関わりについて聞いた。小さい頃はおばあちゃん子で、本多氏のおばあさんは当時豊田の婦人会会長も務められていたこともあり顔も広く、いろんな所に連れて行ってもらったとのこと。
 その後、小学校6年生の頃よりオーディオマニアになった。きっかけはチャップリンの映画「モダンタイムス」を観て、この映画音楽を家で聴きたいと思ったことで、そこからフォークやジャズにも興味を持ち、中学時代には、吉田拓郎のつま恋コンサートに行ったり、井上陽水のコンサートに行ったりしていた。ただそこから楽器をやる方には行かず、オーディオ機器やレコードが多くなりすぎて、これでは引っ越しはできないので地元の大学の薬学部に入学して(笑)、薬局を継ごうと思っていたとのこと。
 音楽以外では、藤山寛美が好きだったり、落語をよく見ていたが、もっぱら見るのはテレビだった。豊田には芝居や落語などをやっている小屋はもうなかったと思う。コロモ劇場もその頃はもう映画館だった。
 マセた子どもだったので、周りの年上の人が、コンサートに連れて行ってくれたり、声をかけて誘ってくれた。名古屋にもよくコンサート等行った。豊田ではそれほどライブ等はなかったと思う。今思えば何かと受け身で、年上の人に連れて行ってもらっていたので、チケット代もほとんど払ったことがないという(笑)。そういう子ども時代だった。
 大学卒業後は名古屋の薬局店に3年修行に行き、その後家業を継ぐ。
 商店街での活動の前にJC(青年会議所)に入って活動した。これも「どーせいつか入らなきゃいけないんだから」と誘われてしょうがなく入った。JCでは12年活動した。
 本多氏は、何かと受け身で、誰かに誘われて始めて、でも結局長く続けてしまうパターンがあるようで(笑)、なんでも受け入れる、先入観なく自然体でやってみる、という人柄がなせる部分も大きいのではと思う。
 JCの活動時期の最後の頃、一番街商店街の理事長になった。当時でも今でも30代での理事長は珍しいと思うとのこと。理事長になって20年になる、理事長だけは、受け身ではなく「ぜひやりたい」と言って引き受けた(笑)、とのこと。

豊田中心市街地の変遷Ⅱ(30年前~現在)
 一番街商店街という名称になって今年で30年となる。一番街商店街は、3つの自治区(一区、二区、三区)にまたがる商店街という特長がある。当時、30年前頃~理事長になった頃は、行政も絡んでとにかくイベントをやるという時代だった。豊田まつりから豊田おいでんまつりになったのも、ちょうど30年前になる。駅西の再開発(そごう、T-FACE)、長崎屋の撤退やユニー/アピタの撤退の流れの頃である。
 おいでんまつりが始まった頃は、悪夢だった(笑)と話す。とにかく地域や学校、企業も含めて全市的に盛り上げようということで、自分は張りぼての鉄骨を担いでて、踊り部会長なのに1回も踊ったことがなかった(笑)。おいでんまつりも基本は行政主導で、どんどん大きくなっていった印象。
 20年前に商店街の理事長になった頃は、とにかくイベントをやらなければというプレッシャーがあったと話す。しかし、イベントをやるとなると本業がどうしても疎かになるし、すべての個店が望むイベントは難しいというジレンマもあったとのこと。イベントをやらねばというプレッシャーから解放されたのは本当にここ数年とのこと。商店街としてやれることは基本的にはインフラ整備等の土台作りであり、集客はやはり個店それぞれが魅力を出していってもらうしかない、という思いに至ったとのこと。
 筆者はこの<TAG>通信映像版のゲストによく聞くのだが、ここ10~15年豊田中心市街地に飲食店、特に飲み屋さんがとても増えて継続している、その要因はなんだと思いますか?と本多氏にも聞いてみた。
 本多氏は主な要因は2つあると思うと答えてくれた。1つは、豊田の商店街だけの話ではなく、世界的な流れだが、お店でモノが売れなくなった、インターネットに替わってきたという流れの影響は大きいと思う。例えば、アパレル、衣料品をインターネットで買う時代が来ることは考えられなかった。服は着てみて買うものだったが、今や男性どころか女性までインターネットで服を買う時代になった。そういう、モノが売れなくなったことによる業態の変遷はあると思う。
 もう1つの理由は、そうは言っても、孤食の時代と言われても、やっぱりみんなで集って食事をしたい、モノはお店では買わないけど、ずっと個人ではさみしくて集いたいとみんな思っているのだと思う、とのこと。
 音楽業界で例えば、CDが売れない時代と言われて久しいが、それなら音楽自体が聞かれなくなったかというとそうではなく、昨今はライブやコンサート動員数は順調に伸びているという例もある。豊田の例で言えば、30年前、駅西にそごうやT-FACEができた時に、駅東は廃墟になると言われたこともあったが、そんなに極端に人の流れは変わらないと当時も思っていた。
 商店街は生き物なので、その時その時で時代に合わせた形になっていく。飲食店が増えて10~15年だが、その前には携帯ショップが立ち並んだ時期もあった。そういう意味では、そういう流れ時代に逆らってもしょうがないので、例えば今なら飲食店を出しやすいインフラ整備をしていく、ということが商店街等のするべきことなのかなと思う。
 ただし、すべてのお店が業態を変えていくべきかと言われればそうでもなくて、ずっと同じ業態を続けていくお店もあるべきで、うどん屋が流行っているからと言って急にラーメン屋になっても長続きしないと思うし、まさしく自分がやっている薬局などは続けていくべき業態なのだと思う。
 豊田中心市街地に昼間人口(働きに来る人)が増えたという事由ももちろんあるとは思うが、例えば飲食店のジャンル自体も一時の居酒屋乱立から最近はイタ飯屋が増えている。でもそれは、昼間人口の増加が直接そのことの理由の答えにはならない。流行り、大きな流れ、大きなうねりの中で商店街は変わっていくものなので、その流れに沿っていけるかが重要だと思う。
 そんな流れの中で、業態に関わらず商店街の個店でこれから大切になってくるのは“対話”だと思っている。量販店やインターネットでは得られない“対話”がこれからのキーになるのではないか。そう思ってホンダ薬局は「対話型薬局」を目指している。
「だから、全然商店街をあきらめてはないし、まだまだ商店街には可能性がある」と本多氏は話す。

本多氏と文化芸術の関わり
 本多氏はお芝居と15年前頃より関わってきた。最初は唐十郎の紅テントを招へいしたことで(計3回招へいした内の2回は本多氏が委員長を務めた)、1回目はアピタの跡地で、2回目3回目は挙母神社で行った。
 その挙母神社でのテント芝居の雰囲気がよくて、もう1回やりたいということで、とよた市民野外劇で知り合っていた石黒氏に相談し、9年前にわくわく事業の1つとして挙母神社でのテント芝居を行ったのが「翔べ!ジョニー」公演(石黒作演出)だった。「翔べ!ジョニー」は制作だけのつもりがいつの間にか出演してしまったが、、、(笑)。
 また、石黒と筆者がプロデュースをした、<TAG>の前身事業の<TUG>(2011年)にも関わっていただき、Star☆Tと共演もしてもらった。<TUG>はヴィッツ下の豊田市民ギャラリーの活用という目的もあったので、ぜひ周辺商店街とも絡みたいと思った時に相談させてもらったのが本多さんだったという経緯がある。
 今後も文化芸術人材がどんどん商店街に絡ませていただきたいと思っている中で、本多氏を窓口に色々ご相談していきたいと思っている。

豊田おいでんまつりについて
 最後は、本多氏が踊り部会長も務めるおいでんまつりの話題となった。本多氏は、おいでんまつりは合併をして大きくなってきた豊田市の豊田市民としてのアイデンティティを育むアイコンになるべきだと訴える。マイタウンおいでんも含めて、おいでんまつりが、もっと豊田市を知る、豊田市民であることを感じる機会になって欲しいと話す。
 豊田おいでんまつりは今年がちょうど50回目にあたる(豊田まつりで20回、おいでんまつりになって30回目)。筆者が50回の節目でそのまま継続していくのか、方向展開をするのか見守っていたがどうなりますか?と本多氏に聞くと、まさに議論の真っ最中でいろんな意見があるが、おいでん踊りは続けていくという意見が大勢ではないかと話してくれた。ただし、今のまま、そのまま継続していくのは時間の問題やその他限界もあり、変わっていく必要があると思うとのこと。今年は金曜日に前夜祭をやろうという話も出ており、色々試行錯誤していきたい。
 石黒氏は、おいでんまつりは踊る人のものなのか、見る人のものなのか、と聞く。名古屋や札幌のまつりは、まずは踊る人のものであり、踊りの質を高めていくことで、それを見に行く人が増えるという相乗効果があると思うが、おいでんまつりはどうなっていくのか。
 本多氏は、現状ではおいでん踊りの競技という面をいきなりなくすことはできないので、踊る人が中心であることは続くと思うが、踊る人と見る人の垣根をどうやって下げていくかという課題は今後あると思う。
 筆者も、膨大な踊り連が参加していたあの頃をもう一度ではなく、様々な場面、場所で様々な楽しみ方がある、多様性がある中でそれぞれで参加できる、新しいおいでんまつりを作っていくべきだと思う。本多氏は今年やる予定の前夜祭がそんな何でもありな実験的なイベントになるのではないかと話す。
 本多氏は、おいでんまつりは、合併で大きくなってきた豊田市の唯一の「この指とまれ」だと思っていると話す。なので、門戸を狭めることはしたくないし、だれでも気軽に参加できるおまつりを目指していきたいと話す。
 おいでんまつりも含め、文化芸術人材も商店街のみなさんと様々な形でかかわっていけたらと思っているので、また色々と相談させてください、というところで今回は終わった。

本多さんから告知です。
豊田市スタジアムでのグランパス戦開催時には、喜多町3丁目交差点付近で焼きそばを売ってます。缶バッジも作って焼きそばにつけているので寄ってください。
5月27日には中心市街地周辺でふれ愛フェスタ2018が開催され、一番街商店街にて段ボール迷路をやってますのでこちらもお越しください。
そしていよいよ7月27・28・29日は豊田おいでんまつりです。ぜひ楽しんでください。

ゲストプロフィール
本多勝幸(ほんだかつゆき)
薬剤師、薬局店店主、一番街商店街理事長。1960年生まれ。豊田に生まれ、小さいころから音楽・オーディオ機器にのめり込む。大学卒業後修行時代を経てホンダ薬局を父より継ぐ。JC(青年会議所)活動の後、一番街商店街理事長に就任、他にも豊田おいでんまつり踊り部会長など。また、唐十郎氏が主宰する「紅テント」の招へいや、挙母神社でのテント芝居「翔べ!ジョニー」(2009年 石黒秀和作演出)の主催・出演、「サードlab.」出演(2011年)など演劇等文化芸術人材との交流も深い。  

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2018年05月17日

【コラム】とよた演劇協会 1年、これから(石黒秀和)

とよた演劇協会を設立して1年余りが過ぎた。協会の説明は設立と同時に立ち上げたとよた演劇協会のホームページ(https://toyota-engeki.jimdo.com)をご覧いただくとして、会費もとらない、誰でもいつでも入退会できるゆるい協会としては、煩わしい義務もない分、特に会員になることでのメリットなどもなく、それでも30名を超す方々がこの1年で登録してくれた。協会には一応数名の役員がいる。その役員を中心に、ホームページの運営や事業の企画などを行っている。昨年度は、劇カフェと称した演劇人の交流会やとよた演劇祭、野外群読劇、感動の玉手箱劇場などを、協会の主催、共催、主管事業として実施した。協会の事業としては先ずは交流会や勉強会を中心に運営していこうと思っていたのだが、感動の玉手箱劇場の運営におおよそ後半半年余りを費やしてしまったこともあり、正直肝心の交流会や勉強会がおざなりになってしまった感は歪めない。ホームページの運営も、役員が輪番でメンテナンスしているのだが、こちらも正直うまく回っていないのが現状であり、またそのあたりに役員の少なからぬ負担も生じている気がして、今後の課題だと認識している。ゆるくとも持続可能な組織運営と発展・・・そこへの挑戦がまだしばらくは続きそうである。いずれにせよ、この協会は、ちょっと演劇について悩んだり、誰かと話をしたくなった時、人と人をつなぐものでありたいと思っているので・・・とりあえず、近々「劇呑み」と称した飲み会を開催したいと思っています。会員の皆様もそうでない方もぜひご参加ください。

石黒秀和
富良野塾出身。作・演出家。
とよた市民アートプロジェクト推進協議会委員長。
とよた演劇協会会長。  

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2018年05月02日

【コラム】<TAG>通信第19回「ストーリーにおけるテーマとは(略)(ゲストどうまえなおこ氏)」要約と所感 清水雅人

1時間超の映像を見る時間を割くのが難しい方のために、<TAG>通信[映像版]の要約をお送りするシリーズ、今回は劇作家、演出家のどうまえなおこ氏に話を聞いた。
※すべてを要約できてはないので、よろしければどうぞ映像版をご覧ください。
<TAG>通信[映像版] → https://youtu.be/JzlsYSjigcA

どうまえなおこ氏経歴
 今回のゲストは豊田を中心に活動する劇作家、演出家のどうまえなおこ氏をお招きした。これまでのゲストと同じく経歴や活動歴もお聞きしたいが、どうまえさんは、ホストの2人とは昨年秋以降深い関わりがあったので(石黒氏とは豊田市民の誓い40周年記念感動の玉手箱劇場事業の作演出チームとして、清水とは豊田ご当地アイドルStar☆Tアルバム「メロウ」収録短編小説執筆、作詞として)、そのことも話したい。
 どうまえ氏は2010年とよた演劇アカデミーの3期生に参加。それ以前には、映画や本を読むのは好きだったが、特に演劇などに関わることはなかった。学生時代演劇部でもなかった。その頃ちょうど人生のひきこもり期で(笑)、「これはいかん、外に出なければ」と思っていた時に広報とよたで演劇アカデミー生募集記事を見て、受講料も1年間で1万円と安いし(笑)、ちょっとやってみようかと思って参加したとのこと。「それでアカデミーに入ってみたら、ハマっちゃったんですよね~(笑)」と語る。演劇アカデミーの修了公演の脚本をアカデミー生みんなで書いたのだが、最終的に3幕を書く3人の内の1人に採用されてうれしかったし楽しかったとのこと。石黒氏もその時からよく書けてた印象がある、台本としてもきちんとしてて経験者だとばかり思っていたとのこと。

 演劇アカデミーは1年で修了だが、その後、長久手文化の家の戯曲講座に採用されて参加したりとか、ちょうどT-1(とよた演劇バトル 複数劇団・グループが短編演劇を公演し、観客投票でグランプリを決めるイベント)が始まって、劇団SUN(演劇アカデミー3期生を母体とした劇団)として参加したり、美術館のミュージアムフェスタ内での「小さな演劇」を手掛けたり(4作品ほど)、とよた演劇祭参加作品など、短編が主だが作演出を行ってきた。
 石黒氏は、どうまえのホンはいい意味でわかりにくいというか、すべてをセリフにしないので、より演劇的なホンが書ける人だと思う、自分はつい全部書き込んでしまうテレビドラマの人なので(笑)と語る。だから演出も合わせてやると、より良さが発揮できるタイプだと思うとのこと。ただ短編が中心で長編をやってないので、ぜひそろそろ長編にも挑戦してほしいとも語った。

豊田市民の誓い40周年記念事業 感動の玉手箱劇場「虹かかる街」について
 当事業のいきさつを石黒氏に聞く。市より、感動の玉手箱(市民から募集した本当にあったちょっといい話集)を題材に演劇公演をやってもらえないかというオファーがあったのがはじまり。最初は朗読劇でもと考えていたが、ちょうどとよた演劇協会も立ち上がったところで、ホンが書ける人材も揃っていたので、どうまえ氏を含む演劇アカデミー修了生からの7人で分担して台本を書き、演出もすることにしたとのこと。
 当初は感動の玉手箱の中の題材からと考えていたが、現実問題として、脚色するにも当事者の許可がいる、再取材が必要などのハードルがあったため、一旦白紙に戻し、7人で豊田の魅力とは?から話し合って、ワークショップ形式で小箱(※ストーリー上の構成)まで一緒に作っていった。
 筆者の観劇の感想は、石黒氏が実際に書いているパートは少なく、全体を調整するプロデュースをされたと思うが、逆に石黒らしさが出てるな、と感じた。例えば石黒氏が1人で脚本を書く場合よりも、プロデュースがゆえにより石黒らしさが出たのではないかと。それはプロデュースだからこそ、テーマやコンセプト、フォーマットを7人に提示調整する中で、より色がわかりやすくなったのではないかと思う。
 石黒氏は、演劇アカデミーの修了公演も、アカデミー生が書いたものを監修する形でやっていて、今回も流れは同じだったかなと、そういう意味では、とよた演劇アカデミーの集大成的な感覚もあったと語る。それに、今回は、“いい話を”というクライアントからのオファーもあり、7人にもコンセプトとして、“いい話で”というのは言っていたので、まとまりやすかったし、それほどもめることもなかったとのこと。
 小箱の段階で18シーンになったため、そこから1人3シーン程度ずつ台本を書き、演出も自分の書いたパートを中心としつつ、7人で演出する形だったとのこと。どうまえ氏は、中でも中心的な食卓のシーンを分担した。全体のコンセプトとして、「寺内貫太郎一家」(テレビドラマ)的な、昭和の家族的な雰囲気を出したい、家族の食事のシーンを中心に据えたいと思い、そこをどうまえ氏が担当したとのこと。
 どうまえ氏は、今ちょうど、何を書いたらいいのか、どう書いたらいいのか、という壁にぶちあたっていると言うが、このホンは、7人で一緒に作っていく中で、みんなからいろいろアイディアももらったため、すんなりとあまり壁を感じずに書けたと語る。向田邦子さん(寺内貫太郎一家脚本)の脚本を図書館で読んだり、映像も見たりして参考にしたとのこと。

 9月頃からストーリー作り、脚本作りをはじめ、11月までにおおよその完成形が出来上がった。出演者は市民公募で行った。12月のオーディション時に20名程度が集まり、その後演劇アカデミー修了生や経験者、たまたま稽古を見に来てた人を引っ張り込んでなどで、40名ほどになった。稽古は12月中は本読み等、1月から週2日のペースで行った。当初の予定より公演時間が伸びたこともあり、稽古時間はとても少なかったが、なんとか上演に耐えうるものができたかなと思うとのこと。
 どうまえ氏も、本番がとってもよかったので、ホッとしていると語る。見た人もよかったと言ってくれて、満足されているようなのでそういう意味でもよかったと思う。
 石黒氏は、今回は市民劇の良さが出たと思っていると語る。市民みんなで、子供からお年寄りまで幅広い年齢層が演劇に参加する感じや、観客が「知っている人が出てる!」となる感じも含めて、市民劇もいいなと。とよた市民劇や野外劇をやって、もう市民劇はいいな、と思っていたが、今回の事業を通して、市民劇という形もアリだなと再認識したとのこと。
 筆者も、観劇して同じことを感じた。市民が演劇に参加する機会として、こういう事業が、毎年は難しいかもしれないが数年ごとでもいいので定期的にあってもいいかなと思う。90年代に行われた市民劇は、豊田の演劇がほぼそれしかない状態だったのでクオリティも求められてしまったが、現在は、演劇アカデミー修了生の劇団はじめ様々な演劇環境もあるため、入口としてあってもいいなと思った。客席も満席で、出演者の家族や関係者も多かったと思うが、そういう市民劇的な雰囲気も1つの形としてよかったし、継続してあるといいなと思う。

Star☆Tアルバム「メロウ」について
 続いて、Star☆Tアルバム「メロウ」についてに移った。アルバム「メロウ」はコンセプトアルバムと銘打ち、収録の全14曲で1つのストーリーになっている。歌詞等でストーリーが繋がっていくのだが、軸となる短編小説を作り、CDのブックレットに収録するということで、その小説執筆を筆者よりどうまえ氏に依頼したという経緯。
 筆者とどうまえ氏との最初の打ち合わせの中で、アイドルがどうしてもテーマにならざるを得ないかな、とか童話的な内容はどうか等の話も出て、どうまえ氏はアイドル本を読んで勉強したりして(どうまえ氏が結構勉強する作家であることが判明した)、人魚姫をモチーフにする案はどうまえ氏から提案された。どうまえ氏が以前に作詞した「ハイブリッドガールⅡ」の世界観を継承したセカイ系ストーリーのアイディアもあったが、今回は継続性ではなく独立した形がいいとの判断で人魚姫モチーフが採用された。
 どうまえ氏は、当初長さの制約はないと聞いていたが、最終的に10ページほど削る必要が出てきて大変だったと語る。確かに当初は長さの制約をしてなかったが、上がってきた原稿が想定以上に長かったので、物理的な収録ブックレットのページ数の上限から、削ってもらったので申し訳なかった(清水)。
 石黒氏は、冒頭童話的な書き出しだったが、途中から小説的な文体に変化したりして、好みとしては最後まで童話的な文体の方がよかったのではと語る。
 どうまえ氏は、当初より、童話的な文体や小説的な文体、モノローグなどいろんな要素を詰め込みたいという意図があったとのこと。ただ、確かに文体をかき分けるには字数が少なかったのではとの意見も出た。散文執筆は初めてだったというどうまえ氏だが、書き進めて方については、途中にこういうシーンを入れる、ラストはこういう感じでという大まかな構想は持ちつつ、まずは書き進めて行ったとのこと。石黒氏は、短編ではなく、長編的な書き進め方をしたように見えると話した。
今回、石黒氏にも1曲作詞を担当してもらっている。主人公の人魚姫が人間になるためにはどうしたらいいかを聞きに魔女に会いに行くシーンをモチーフに作詞してもらっているが、魔女は、人魚姫を応援しているのか、諫めているのか、どちらの解釈か迷ったと語る。魔女は、以前人間と恋に落ちた過去があり、そのことで痛い目にあっている、しかし、それでも人魚姫を応援しているという解釈で作詞を進めたとのこと。
 筆者は、初稿を読んだ時に、「ピノキオ」やスピルバーグ監督の「AI」という映画を思い浮かべた。愛を持ってない人魚が愛を持っている人間界に行くが、もはや人間は愛を忘れつつある。その中では純粋に1人の男性にもう一度だけ会いたいと願い行動する人魚姫がもっとも愛を持っているように見え、それに触れた人間たちが逆に愛を取り戻していく、という普遍性のあるこれまでにも様々なところで繰り返されてきたテーマを感じたので、どうまえ氏と共有しながら2稿3稿と書き進めてもらった。
 石黒氏は、例えば魔女が以前恋をした人間が出てきて、、、というような展開もあったのではと指摘する。どうまえ氏は、途中片目のない男が出てくるが、あの男が人間の「悪」の部分をもっと体現していく構想もあった。だが、字数の関係で現在の形に落ち着いてしまった経緯もあると打ち明けた。
 筆者もプロデュ―サ―としての葛藤はあった。初稿を読んでとても面白いと感じ、この線で行きましょうとなったが、先ほど言った愛のテーマをもっとわかりやすく際立たせていくのか、例えば人魚姫がやってきた人間界はもう愛がない、愛の悪い面が出ているとするなら、人魚姫を助けるオタクや、プロダクションのマネージャーはもっと悪い人というキャラクターにするべきか、ただ、オタクの心情やアイドル業界の在り方がとてもリアルでフラットに書かれているので、リアルなアイドル業界の紹介という意味では今のままの方がいいのか、等々迷った。どうまえ氏は、そういう人間のダークサイドを片目のない男が表すという構想だったんだと思うが、最終的には字数や時間の関係で今の形で行きましょうと判断させてもらった。
 そもそもどうまえ氏は、舞台シナリオについても、台本を書く段階からゴリゴリにテーマを設定して書くタイプではなく、演出をしながら、徐々にテーマが後から見えてくるタイプなのではないかと筆者は思う。
石黒氏は、どうまえ氏はもちろん書いている段階からテーマはあるのだろうが、無意識で書いていて、それが後から見えてくるのではないか、でもそういう才能がどうまえ氏にはあると感じると語る。
 筆者は、テーマを固めてからストーリーを作っていくと、ストーリーの幅を狭めてしまう可能性があり本当はよくないのだが、映画作りで若い監督のシナリオを読んだ時に、テーマがわかりにくいので、もっとわかりやすくテーマを出したらどうかというアドバイスをいつもしてきた。あまりにもテーマが読み取れないのも作品としてのバランスを欠くのではと思う。
 特に今回は、メインのターゲットは普段それほど小説等に親しんでない層を想定していたし、まず最初の読者はStar☆Tのメンバーなので、いわゆる女子中高生の「泣けた!」というリアクションが欲しいですね、という話はどうまえ氏ともしていたが、そういうわかりやすさは出し切れてないかもしれない。理解力、読解力のレベルが落ちてきている、と言われている現在の中で、どのように創作していくかも考える必要性も感じた。
 ただ、今回は、コンセプトアルバムというフォーマットで、楽曲と連動した小説でもあるので、楽曲の歌詞によりテーマを分担させるという判断もあったことも添えておく。
楽曲と小説が絡む大きなプロジェクトとして完成した「メロウ」をいつか舞台化したいですね、という話が出たところで今回の対談は終わった。

最後に
 今回は、ゲストのどうまえ氏が関わった舞台作品と小説について中心に話が進んだが、感動の玉手箱劇場については、市民劇、脚本演出をチームで行うというフォーマット、みんなで作り上げていく過程ゆえに、よりわかりやすくテーマが見えたという印象と、小説という究極の個人的な創作の中でテーマをどう表現していくかのバランスの難しさが浮かび上がったと思う。演劇や音楽、映像やアートなどの創作の中で、テーマをどう扱うかということ自体がとても普遍的なテーマだと思うので、これからも折に触れ色んな人に話を聞きたいと思った今回だった。

 どうまえ氏は、現在具体的に告知できる次回作はないが、いくつか話はあるので、いずれお知らせできると思うとのこと。
 発起人2人が才能を認めるどうまえ氏の今後の活動にも注目されたい。

ゲストプロフィール
どうまえなおこ
劇作家、演出家。2010年とよた演劇アカデミー3期生に参加。修了後、とよた演劇バトルT-1、豊田市美術館ミュージアムフェスタ小さな演劇、とよた演劇祭など多数の劇作、演出を手掛ける。また、豊田ご当地アイドルStar☆Tの楽曲作詞歴あり。昨年秋からは、石黒がプロデュースした豊田市民の誓い40周年記念感動の玉手箱劇場の作演出チームに参加、また、清水がプロデュースしたStar☆Tアルバム「メロウ」収録の短編小説及び作詞に参加した。
  

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2016年11月24日

【コラム】劇団スカブラボー第5回本公演「天使に願いを」観劇レポート 清水雅人

 11月16・17日に豊田産業文化センター小ホールで開催された劇団スカブラボー第5回本公演「天使に願いを」を観劇してきた。
 以下まずは劇団スカブラボーを紹介する。
 劇団スカブラボーは東京を中心に活動する劇団だが、昨年まで開催されていた、とよた短編演劇バトル「T-1」にて、前身団体「空想科学少年ダッチ☆だんぺい」から数えて2年連続で優勝、昨年にも第3回公演を豊田で行っているとのこと。団員のどなたかが豊田市出身ということで(間違っていたらすみません)、結成以来豊田と縁が深い劇団だ。
 東京の下北沢界隈にて公演もしているとのことで、東京で活動する小劇団の舞台が豊田で観られるのは、実は珍しいことでもある。
 また、地元の劇団の公演は土日曜日公演が多い中(団員が仕事を持ちながらということもあると思うが)、今回の公演は平日夜公演という挑戦をされており、そのあたりも注目する点だった。
 筆者はT-1での舞台及び昨年の公演も見逃しており、この劇団の観劇ははじめてであった。

 まずは、公演全体についての所感から。
 筆者は2日目の11月17日(木)に行ったが、集客は苦戦しており、さびしい感じは否めなかった。笑いが起こるべきところでも、会場の密度が薄いゆえ起こらない雰囲気が終始した。これが、もう少し小さい箱で、お客さんも密集していたら、笑いや他のリアクションももっと起こっていたと想像するので、改めて場の重要さを感じ、今回はちょっともったいない気がした。
 セットもシンプルで、登場人物もそれほど多くなかったので、よりお客さんが密集する空間の方が、演者の熱気も伝わり、芝居自体の印象ももっと違ったのではないかと思う。ただ、豊田においては、芝居が常に上演できる小さい箱というのはないので、自らで作るしかないのだが。

 内容においても、会場の広さゆえか、本公演という構えゆえか、少しゆったりとした印象があった。兄天使が出てきてから少しずつ芝居がノッてきたのだが、逆にそれまでが長く感じた。全体としても、もっとテンポよく、全体尺も短くてよかったと思う。
 小さな漁村、気弱な主人公のもとに天使が現れ、人間と天使の恋、兄妹天使の母の秘密など複数の軸が交差しながらストーリーが進んでいくファンタジックな内容だが、構えが大きいためか、ストーリーの建てつけの雑さが見えてしまった感じがした。もう少し小さい空間で、テンポもよければ、多少雑くらいな方が勢いが出て気にならなかったと思うし、構えを大きくするなら、もう少し周到なストーリー構築、展開が欲しかったと思う。

 ただ、演者1人1人のスキルは高く、それぞれのキャラクターも演じ分けられていてすんなりと入ってきた。演技力、演出力の高さゆえだと思う。
 この公演が実力のすべてではないと思うので、これからも、豊田でも継続して公演しもらって、劇団の成長を見ていきたいと思う。

清水雅人
映像作家・プロデューサー。<TAG>発起人。映画製作団体M.I.F.元代表。映画製作の他にも、小坂本町一丁目映画祭運営、豊田ご当地アイドルStar☆Tプロデュ―スなどを手掛ける   

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